東京都東久留米市の「グループ・中国だい好き」です。中国がだい好きな方々とのネットワーキングを大切にします。


by zuixihuan

カテゴリ:読者の投稿( 30 )

世界遺産・武陵源の絶景を楽しむ旅

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by zuixihuan | 2015-11-25 04:23 | 読者の投稿 | Comments(0)
中国だい好き会員の西垣内です。
趣味はマラソン参加と社交ダンスの競技参加です。

2015年2月22日(日曜日)に、第9回東京マラソンがありました。
今回、中国の上海と福州からマラソン仲間が来日しました。
22日のマラソンに出走するために、2月20日(金)に来日し23日(月)帰国しました。

この東京マラソンは36,000人が走ります。
エントリーするのに日本人は10倍の競争なので、私はまだ3回しか走っていません。
今回もはずれたので、応援に回りました。
上海の友人は3人申し込んで1人しか当選しなかったとのことです。
外国人も東京マラソンを走るのは難しくなっているようです。

金曜日は空港に迎えに行き、土曜日はゼッケンを受け取りに東京ビッグサイトまで行きました。
日曜日は新宿と銀座と終点の東京ビッグサイトまで応援に行きました。
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そして、月曜日は東京駅まで送りました。
こんなことで、4日間ほとんど彼らと一緒でした。

便利だったのはチャットです。
二人はそれぞれiPone4、iPone6を持参しており、東京にいても頻繁に中国の仲間とチャットをしていました。
それは微信(We Chat)というアプリを使った方法です。
私もこの微信をiPhone5に入れていたので、彼らの東京滞在中もお互いにこれを使って連絡を取り合っていました。二人ともiPheneを使っていたのも偶然とはいえおもしろいです。
朝、「早上好」から始まって、夜、「晩安」までです。

この微信は写真添付も簡単なので情報交換するのにすごく便利です。

iPoneは中国語の手書き入力ができるので、もっぱらそれを使って中国語を書いています。
パソコンの場合はピンインを入力して、それを簡体字に変換します。
これを何年もやってきました。
しかし、iPhoneは簡体字を書けばそれが活字になって画面に現れます。
でも、たまに簡体字を忘れていて、手書きしてもうまく中国語漢字が現れないときがあります。
この時には他の単語を使って意思を伝えたりします。
東京にいると、ふだん、中国語を気軽に書いたり話したりする機会がありません。
そういう意味でも今回の彼らの東京案内は良かったです。

上海の彼は上海でマラソン仲間46人でランニングクラブを作っています。
彼はそのクラブの隊長です。
今回、彼は私をそのクラブに招待してくれ、微信のチャットグループ仲間に登録してくれました。

そのチャットグループは47人です。
おはよう、今日は何キロ走った、今日は雨だ、今度のマラソンはこれに参加する、など頻繁に交流しています。私のiPhoneにもそのチャットの内容が同時に入ってきます。
チャットなので話し言葉ですが、生きたフレーズが毎日学ぶことができます。

私も走った記録を書いたり、黒目川の自転車道の写真をアップしたりして、ランニング交流しています。
2010年と2011年の夏に上海交通大学の夏期講座に参加しました。
その時のランニング仲間がそのまま今も友人になっています。
私はいまも上海にいるようです。

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by zuixihuan | 2015-03-02 10:36 | 読者の投稿 | Comments(0)
ベトナムマラソンと社交ダンス


中国だい好きの皆さん

ご無沙汰しています。
会員の西垣内です。
語学のクラスを離れてからすっかり皆さんとご無沙汰しています。
しかし、このBlogで教室日程をアップしたり、企画などの情報をアップしたりして「中国だい好き」とはけっこう近くでうろうろしています。

私はマラソンと社交ダンスが趣味で、それがほぼ日課になっています。

次のマラソンは2013年10月27日のベトナム国際ハロンベイマラソンです。

ベトナム国際ハロンベイマラソンのホームページ

ベトナムは走れるうちに1回走りたいと思っていました。
今年は日本とアセアン40周年記念の年であり、ベトナムとも友好関係になった記念の年らしいです。
それで第1回目のハロンベイマラソンが企画されたようです。
ハロンベイではそれなりの記録を出したいので練習メニューをつくって走っています。
ベトナムカラオケも始めました。
向こうで何曲か歌ってこないとね・・・。


日程
2013年10月24日成田発、ハノイ着
2013年11月2日ハノイ発、3日成田着

予算
成田ハノイ往復(JAL)59770円(燃料、空港税など込み)
ハロン Halong Plaza 4泊 29557円
ハノイ市内 シティホテル5泊 17850円
自宅―成田往復 2840円
食事・交通など現地費用 3000円×8日=24000円  
フルマラソン参加費 10500円
合計 144517円

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あと社交ダンスですが、最近私が所属しているダンスサークルに中国人が入ってきました。
40歳で高校生の息子さんがいる女性です。
20歳のころ、中国で社交ダンスをやっていたことがあり、日本に来てからも市報等をみて、ダンスサークルを探していたらしいです。
それで、彼女は西団地に住んでいるのですが、滝山団地でやっている私たちのサークルに加入してくれました。
中国語で話しました。
私の発音に対し「きれい!」と言っていましたが、彼女は広東省出身なので、私たち日本人が学ぶ「普通話」はきれいに聞こえるのか知れません。

言葉はコミュニケ―ションの道具と言いますが、使えると便利ですね。
ベトナムはベトナム語、フランス語、英語が通じるようですが、中国の影響も強く受けているのできっと中国語も喋る機会があると楽しみにしています。
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by zuixihuan | 2013-08-09 19:27 | 読者の投稿 | Comments(0)
  最近の中国人留学生大学入試事情                    

宮秋道男(NPOアジアン・ロード理事長)

  冬も近くなり、日本の大学も入学試験シーズンになった。最近、首都圏の私立大学で教えている友人と話をする機会があった。友人はときどき、留学生入試の面接委員をするが、今年もつい最近面接委員をしたばかりだという。
  アジアン・ロードでも、中国人留学生の世話をしている。彼らのなかにも大学受験を控えている学生がいる。そこで、留学生の入試面接の実情について話を聞いた。以下の話が留学生の入試準備に役立ったら、と願っている。

  (1)留学生入試の内容。 友人の大学では、大半の学部が日本語小論文(60分、100点満点)と面接評価(A・B・C・Dの4段階)で決める。面接評価のさいには、面接内容だけではなくて、提出された留学生試験の点数やその他の成績資料も考慮する。「その他の資料」とは、「日本語検定1級」、英語検定、TOEICなどである。友人の大学では、「日本語検定1級」所持者は文句なく合格するという。

  (2)面接時間。  だいたい20分から30分である。友人の大学ではいつも現代日本語の文章を最初に音読させる。解釈は尋ねないが、どれだけ音読できるかで、だいたい日本語の「解釈」の水準は見当がつく。音読させる図書は、随筆や文学・哲学・日本史学など多様である。最近の流行作家や外国人の翻訳は対象外である。著名な小説家・言語学者・哲学者の著書(基本的に物故者)の著作を2、3頁コピーしてそのうちの10~15行を音読させる。たとえば、和漢字の「沖」(おき)や、「塊り」(かたまり)「足許」(あしもと)「手応え」(てごたえ)などがきちんと音読できているかどうかをチェックする。どのような傾向のテキストが選ばれるかを岩波新書で例示すると、大塚久雄『社会科学における人間』、鈴木大拙『禅と日本文化』、内田義彦『社会認識の歩み』、三國一朗『戦中用語集』、新藤兼人『老人読書日記』、梅棹忠夫『知的生産の技術』などである(ただし、これらの図書がこれまで友人の大学の入試に使用されたわけではないという)。

 (3)面接における評価の判断基準 (a)志望の動機はなにか。志望理由はどれだけ明確か。(b)志望した学部の特徴をどれだけ理解しているか。どのように学部・学科情報を収集したのか。(c)大学に入学したらどのようなことを学びたいのか。自分の学びたいことは、志望する学部・学科とマッチしているか。以上の(a)(b)(c)について、きちんとした日本語で説明できるかどうか、が合格(評価AまたはB)・不合格(CまたはD)の基準だという。
  事前に留学生が提出した入学願書には、以上の内容を書き込む欄がある。しかし、最近面接試験にたちあった友人によると、最近の入学願書には、以上の内容を適切に書き込んだものがきわめて少ない。日本語学校の教師が無責任な放任主義であるか、あるいは日本語教師の教学レベルか落ちたか、と友人は言う。たとえば、「国際文化」専攻の学科を受験するとして、「志望動機」には「国際文化を勉強したい」と書いてくる。志望する学科のホームページには設置されている科目や専任教員の専門についての資料が掲載されている。しかし、受験生はそれをまじめに読んでいない。だから、「文化」のなかのなにを具体的に勉強したいのか、と面接時に尋ねても答えられない。「文化」には、文学も思想も宗教も音楽も舞踊も美術もメディア論もある。それが、なにも具体的に答えられないのである。
  「入学後に学びたいこと」を書く欄があるが、そこに受験生は、「国際経済や貿易を勉強したい」とか「英語やアメリカ社会について勉強したい」と書いてくる。たしかに、その学部・学科には英語の専任教員がおり、英語教育も重視しているという。しかし、アメリカ研究や英文学を専門に教える学部ではない。そんなことは学部・学科のホームページをきちんと読んでいれば間違えるわけがないのに、と友人はいう。つまり、留学生は受験する学部・学科をきちんと理解していないのである。だから、「あなたは柿がほしいと書いているけれども、私たちの学部はリンゴや梨しか売っていないんです」と友人は受験生に説明する。そうすると、受験生は当惑してしまい、そのあとは対話が続かなかったという。
  友人は高い授業料を取っている日本語学校の手抜き指導にあきれている。いずれの受験生も、「日本語学校の担任の先生に入学願書の日本語をみてもらった」「先生はこれでOKと言った」という。まず、留学生が志願した学部・学科のホームページを日本語教師がチェックして、「入学願書」の内容に辻褄のあうような書き込みをさせるべきである。そして、何回か面接の予行演習をさせたならば、面接で受験生が立ち往生することもなかろう。それなら、大学側の面接委員も「まあいいか」と面接に合格点をつけるだろう。しかし、志願先学部についての理解が不十分で、志望動機と学部・学科内容とに明々白々なミスマッチが確認されたら、面接評価は不合格(評価CまたはD)をつけざるをえない、と友人はいう。もちろん、入試は不合格である。

 (4)面接時におけるその他の質問 (A)読書体験(最近どんな本を読みましたか。これまで読んだ本で感動した作品はなんですか。図書がなければ、どんな映画や演劇を観ましたか)。(B)社会的関心(最近最も関心をもったニュースはなんですか)。(C)大学卒業後の進路や職業の選択(日本で仕事をみつけますか。中国に帰国して就職しますか)。(D)高校や中学での体験(いちばん力を入れてやったことはなんですか。中学や高校時代の人間関係や社会活動はどうでしたか)。
  面接時に審査委員がとくに重視するのは、基礎能力の高さを反映する(A)と(B)である。審査委員は、「日本語でなくてもよい。中国語の図書でもよい」と言う。しかし、「高校時代には教科のテキストしか勉強しなかった」、「文学も哲学や社会科学の入門書も読まなかった」という回答に接すると、審査委員はがっかりするそうである。ちなみに、最近は近現代日本文学の名作(夏目漱石や芥川)も中国語に訳されているのに、と友人は言う。日本で日本語を学習しているんだから、岩波文庫に収められているやさしい現代日本文学の2、3冊(太宰とか有島とか)くらい読んでおいてほしい、と友人は愚痴をこぼす。

 (5)留学生試験その他の利用。 友人の大学では、直前に実行された留学生試験の結果を提出させており、面接試験の当日には「日本語小論文」の試験も実施している。友人の勤務する学部における最近の「日本人入試の偏差値」は40~42である。いわゆるボーダーフリーの大学の入試偏差値は38(俗に「氏名さえ書けば合格できる大学」)だから、まだそこまで試験のやさしい大学ではない。今年は「尖閣諸島」問題のあおりを受けて中国人留学生の受験者数は例年の半分くらいである。例年よりも受験生の基礎学力は下がったように思われる、と友人は語っている。試験の点数についていうと、友人の学部では、日本留学生試験の全国平均点の1.3倍以上を取らないと合格は難しい。国立や私立のブランド大学の入試では、政府の実施した留学生試験の合格点がこれよりもはるかに高いのはいうまでもない。友人は、近年は自分の大学では、「日本語検定1級」合格者はほとんど志願してくれない、とこぼしている。「日本語検定1級」は日本の大学で授業を受けられるための基礎資格なのに、これがない学力レベルでは大学に入っても講義は理解できないし、レポートや卒論を書き上げることも不可能である、という。


  友人は、中国人留学生からときどき日本の大学院進学についての相談も受けている。この問題についても、友人から得たコメント、提言を若干書いておく。

(1)大学院を受験するための最も基本的な条件は「日本語1級」の認定をもっていることである。中国で日本語学科を卒業した留学生はおおむね「1級」を取得している。日本に来て日本語の学習を始めた留学生は1年~2年間日本語学校で学び、「1級」を取らなければ大学院進学は不可であると考えるべきである。なぜならば、日本語の文献を読みながら、かなりのボリュームの日本語修士論文を執筆しなければならないからである。その分量は、一般的には日本語6万字以上だとのことである。

(2)日本の大学院を受験するために大切なことは、受験以前に研究課題を確定し、明確な研究計画書を完成させておくことである。日本語学校の教員では、この内容を指導するのは困難である。願書を志願する大学院に提出する前に、日本の大学院で研究した経歴のある日本人に指導をあおぐ必要があるだろう、と友人は言う。なお、研究課題の確定以前に先行研究の成果を入手して読み、研究史の整理をめぐる研究ノートくらいは完成させておかなければならない。受験以前に十分な「助走」をしておき、4月入学時点で「ヨーイ・ドン」で疾走を開始しなければならないのである。入学してから「助走」を始めるような留学生は失格であり、それを認めるような大学院には進学する必要はない。

(3)最も重要なことは、「日本語検定1級」以上の日本語力を含む総合的な分析力、関連分野にかんする基礎教養である。日本の文系大学院では、指導教授は「放任主義」という指導をする(つまり懇切丁寧な指導はやらない)。教員側は、「この受験生ならば、指導しなくても自分で修士論文が書けるだろう」と認定して合格させるのだ、と友人は言う。

(4)友人によれば、中国人留学生のなかにはわざわざ日本に来て、自分の出身地の社会、経済、歴史、文化などを研究テーマにしようとする者が少なくない。たとえば、内モンゴルからの留学生がモンゴルの牧畜文化を選んだり、吉林省からきた朝鮮族留学生が朝鮮族の教育史を選んだり、というぐあいである。友人はそういうときには、次のように問いかける。「日本人留学生が中国に留学して日本文学や日本経済を研究するか? そんな日本人留学生を知っていたら教えてくれ」。実際の話、日本の大学院には中国語のわかる専任教員はけっして多くはない。中国語と朝鮮語の両方ができる研究者はきわめて少ないし、中国語とモンゴル語の両方ができる研究者は全国で若干名であるという。つまり、上記のような研究テーマを、責任を持って指導できる大学院教員を探し出すのは、きわめて困難なのだ。友人の、中国人留学生にたいする提言は、「日本学を研究するように」に尽きる。しかし、中国人留学生の多くは、せっかく日本にいるのに日本の問題には関心をもたず、日本語の専門的な研究書はほとんど読まない(読めない?)と、友人は慨嘆している。

(5)もしも中国人留学生が卒業後、日本で就職したいのであれば、大学院進学はやめて大学進学に方針転換をしたほうがよい。文系であれば、修士号や博士号を取ることは就職には不利である。学部学生は3年生の秋季に就職活動を開始するが、大学院生は修士論文を完成・提出して卒業(修了)するまでに3か月前後しかない。修士論文を完成したときに就職活動を始めるのでは「完全に手遅れ」である。また、文系では仕事内容は一般行政職や営業職であり、修士号取得者のような高学歴者は不利になる。このような日本社会の現実を中国人留学生はほとんど理解していない、と友人は言う。  (2012年11月)
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by zuixihuan | 2012-12-15 06:24 | 読者の投稿 | Comments(1)
重慶国際マラソンに参加して(2)

中国だい好き会員 西垣内義則

上海から重慶へ

上海では友人宅に泊めていただき、タクシーで20分ほどのところにある虹橋空港から重慶にいきました。虹橋、浦東、重慶とも空港内は無料のWiFi無線ランを使用できるので搭乗待ち時間は苦痛になりません。情報をよんだり、メール受発信したりです。

b0098096_10441596.jpg上海から重慶までの飛行時間はちょう3時間。缶ビールを飲んで、パソコンで社交ダンスの映像を見たりしているとすぐ到着です。空港から重慶市内のホテルまではタクシーで52元(帰りは46元)。地下鉄もありますが、荷物を持っていること、ホテルを探すのが大変なのでタクシーにしました。宿泊先は南岸区で長江沿いにある重慶社会主義学院のホテルです。運転手も場所わからず何回も電話をして行き順を聞いていました。夜はさっそく火鍋を食べました。

b0098096_103668.jpgこのホテルはパオバの大本営です。100人くらいのパオバ会員が宿泊しました。10階建ての8階であり、長江に面していたので風景は抜群。夜には街の灯りがきれいに見えます。いい部屋でした。

南岸区

b0098096_10385949.jpg今回、重慶に行ってみて重慶政府の重慶マラソンに対する位置づけの高さを感じました。それは長江の南岸の開発を進めてきてほぼ出来上がっていることです。この開発した成果をアピールしたいように感じました。飛行場は北東にあり、タクシーはずーと南下して、重慶市内を通過して、長江をわたって南岸区にきます。南ぴんという街が繁華街です。しかし、長江の沿岸はあまり開発されていなかったようです。マラソンの起点であり終点であるシェラトンホテルは長江のそばにありますが、そのシェラトンと長江の間にある道路がマラソンコースなのです。現在は高級な場所という感じになっています。

市内と開発

重慶市のある渝中区は北側を流れている嘉陵江と南側を流れる長江の間に挟まっており、その2つの川が合流するあたりにあります。解放碑もそこにあり名実ともに重慶のダウンタウンともいえるところではないかと思います。ホテル、金融ビル、大ビルディングが立ち並び、そのビル群の放つ灯りは、よく飛行機で鳥瞰して映し出される重慶名物の夜景ではないかと思います。

b0098096_1045415.jpgいま、重慶は南西方面に重慶高新技術産業開発区があり、南方面に重慶経済技術開発区があります。マラソンは長江南岸の経済技術開発区を走りましたが、対岸に産業開発区の工場地帯と煙突も見えました。何本もある高い煙突からはもくもくと煙がでており、産業と環境汚染の象徴でもあるような風景を眺めながら走ってきました。

市内は、バス路線が発達していて、JR山手線に劣らないくらいいろいろな行先のバスが来ては走っていきます。私も1元(古いバス)、2元(中級車)のバスにずいぶん乗りました。バス停での路線表はわかりやすく、来たバスにさっと飛び乗ってあちこちに行けます。タクシーも初乗り8元なのでずいぶん使いました。また最近動き出したらしい地下鉄、軌道も乗りました。一言でいうと移動するのに便利な街でした。

b0098096_1038611.jpg地下鉄1号線は長江をわたって南北につなげるために、長江に大きな橋を建設しています。そのそばに社会主義学院がありますが、1号線が長江を横切るようになると更に市内移動が便利にあります。人口3000万人と言われる重慶、そして開発区を中心に街を変貌させている重慶。いま、重慶は政治的に中国国内はもちろん、国際的にも注目されている街ですが、大きな利権がうごめいている大都会・重慶を彷彿させる街の高さ・深さ・広さでした。

磁器口

b0098096_10414323.jpg18日の日曜日はマラソンの翌日ですが、身体が超回復してまったく問題ないので、市内から西方10数キロ、バスで1時間ほどのところにある磁器口に行きました。バスで2元です。日曜日なので、昼頃には市民でいっぱい。狭い道路は人ひとです。外国人はほとんどいなく、市内と国内観光客が多いように感じました。

b0098096_10423535.jpg現代都市に住む中国人はこの清の時代から栄えた磁器口の古い街並みが好きなようです。小重慶と呼ばれているようですが、石段と石畳の道、その周りは古い街並みと重慶特有の飲食店があります。私も3時間くらいゆっくり街を歩きました。また、昔、陶器など運搬に使われた嘉陵江の遊覧船に乗って、川から街を眺めたりしました。

さよなら重慶

b0098096_10395450.jpgコーヒーが飲みたくなり、スターバックスを探すと南岸区と渝中区の2か所にあると言います。南岸区のスタバは上海城という広大なマンション群の一角にあります。そこで3時間ほど、コーヒーを飲みながら街行く人・車の流れを見て、雑誌を読んで、音楽を聴いてゆっくりした時間を過ごしました。こういう時間が旅に出て一番くつろぎます。


b0098096_10402664.jpgそのあと、重慶で一番大きな本屋の場所を店員に聞くと、バスで20分くらい行った川向こうの解放碑の近くにあるとのことでした。行ってみるとあったのは重慶中華書店。4階までエスカレータでつながっている大きな本屋でした。ここでも2時間くらいいろいろな本を見て、ゆったりした時間を過ごすことができました。

月曜日(3月19日)、重慶20時40分発、上海虹橋22時40分着の飛行機で上海に戻りました。日中に時間があったのでスタバ、本屋などを中心に市内散策したのですが、ディバッグばホテルに預かってもらいました。夕方5時半ころ、ホテルに戻って、ディバッグをピックアップしてタクシーで江北空港へ。タクシーの中で街を見ながら「さよなら重慶!」を言って帰路に着きました。

次に重慶国際マラソンに参加するのは2年後の予定―――2014年です。

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by zuixihuan | 2012-03-23 10:55 | 読者の投稿 | Comments(0)
重慶国際マラソンに参加して(1)

中国だい好き会員 西垣内義則

海外旅行を安く

b0098096_6545918.jpg春秋航空は昨年12月の上海国際マラソンに参加する時にはじめて利用しました。茨城空港から上海浦東空港まで往復約2万円。燃料、空港使用税など全部コミコミです。それまでは成田、羽田から行っていましたが、「身体の移動」という目的ならこれで十分です。また家から茨城空港までの往復運賃は2000円弱です。この安さの秘訣は東京駅から茨城空港まで行くバス賃が500円しかかからないことです。

今回の重慶マラソンも春秋航空を利用しました。今回わかったことは機内持ち込みが5キロまでだということ。パソコンと貴重品は機内持ち込みにして他は預けました。その預ける荷物も総重量15キロまでが無料でそれ以上になると1キロあたり1500円支払います。荷物の重さには気をつけなければなりません。

春秋航空は運賃が安い分だけ、おしぼり、飲料水、食事などのサービスは全くありません。有料で飲食物を置いています。国際線の缶ビールは14元(180円)、国内線は10元(130円)。有料とはいえ、運賃が安いですからこのビール代も安く感じます。座席は他の飛行機より狭いようですが、リクライニングシートにならないのでパソコンなどを使っていて安心できます。

この春秋航空は上海浦東空港と上海虹橋空港がハブになっており、そこから国内のあちこちに飛んでいます。中国国内線も運賃が安いので、私たち日本人からみると、いったん上海浦東空港へ行き、そこから乗りついで中国国内に飛ぶのが安くつきます。問題は上海までの予約・決済は日本からできますが、国内線の予約・決済は中国国内でしかできないことです。幸い、私は上海に友人がいるので、彼に国内線を予約してもらい、あった時に運賃を渡すことで可能になります。いま、国際線も、国内線もすでに予約・決済してある場合はパスポートを持っていけばそのままチェックインできます。友人に予約してもらっても本人がカウンタ―でパスポートを提示するとすぐチェックインできます。電子決済による予 約はチェックインも便利になりました。

春秋航空はハルピン、長春、瀋陽、大連、北京、青島、ウルムチ、蘭州、西安、重慶、桂林、長沙、昆 明、広州、シンセン、福州、厦門、香港など中国の主要都市に便があります。私にとって上海は中国内陸部にいく旅行の入口だと思っていましたが、価格の面でも上海は中国全土の窓口になってきました。

この春秋航空は日本では茨城と高松と佐賀から出ています。なぜ、こういう地方空港なのかわかりませんが、その空港の周辺地域からすると、突然、上海への窓口が開かれた思いでしょう。パスポートさえあれば15日以内はビザなしで、思い立ったらすぐ行ける中国。中国国内は食事、交通費などが安いので、少ないお金でも十分に旅行を楽しむことができます。ホテルも中国語が少しわかればけっこういいホテルが安く予約できます。また、中国もホテルチェーンがあります。私はそのホテルチェーンのカードを作ってあるので、カード特典で安く泊まれます。

今回の重慶9日間の総費用は
自宅から茨城空港  往復1980円
茨城空港から上海  往復22000円
上海から重慶     往復9800円
重慶のホテル5泊   10000円
重慶マラソン参加費  400円
これが基本の費用です。合計44180円です。

これに、上海と重慶の市内交通、食事代、遊ぶお金、友人宅に3泊するのでお土産代がかかるのみ。私はほとんど一人旅です。パックだと一人泊の場合追加料金がかかりそれが旅費に加算されます。旅を安く編集する、それを楽しみながら、気軽にできる時代に変わりました。

マラソン前日

2012年3月17日(土)は第2回重慶国際マラソンです。

重慶国際マラソンのホームページ

このマラソンはロンドンオリンピック選手選考を兼ねた大会なので、中国国内のスポーツ界では盛り上がっています。賞金も1位は3万米ドルなので賞金稼ぎにケニヤ勢も多数参加します。

b0098096_656797.jpgマラソンコースの出発点はアーチができあがり、イベントの舞台、トイレの設置など最後の準備に入っています。コースの両脇には重慶国際マラソンを祝い宣伝する垂れ幕がたくさんあり雰囲気を盛り上げています。私も気分が盛りあがり、マラソン当日はペース管理をして思いっきり走ろうとテンションが上がってきます。

大会当日の土曜日は曇りで気温は14度前後、風はほとんどなし、コースは基本的に平坦、といいますから、レース環境はよさそうです。私にとっては3月12日に誕生を迎えたばかりなので、63歳になってはじめてのフルマラソンです。このマラソンでぜひ3時間半を切りたいと、体力の温存とエネルギーの蓄積、平常心の確保を図っています。

しかし、休息はそうもいきませんでした。

このマラソンに参加するために、シンガポールと台湾から友人、また、上海、雲南など中国国内各地から友人がきています。ですから、夕食、昼食など一緒にとりながら交流するのですが、ついつい酒の量も多くなります。昨夜もホテルに戻ったのは3次会を終えて夜中の1時近くでした。しかし、走るだけでなく交流することが楽しいからわざわざ重慶まで来ているのです。そう思ってはめをはずしています。さすがに今日はマラソン前日なのでほどほどにしなければなりません。


重慶国際マラソンは完走

私の記録は3時間33分26秒。成績としては、目標より3分遅れて不本意でした。しかし、これは自分が走った結果ですから事実として受け入れなければなりません。30キロまではペース配分もよく普通だったのですが、30キロ過ぎから減速。一般的にあることです。この30キロ過ぎをゴールまで波に乗って走りきれるか、体力が落ちて減速するかが分かれ目です。今回は減速でした。

b0098096_6565522.jpgやはり飲みがたたったこと、練習量不足だったことが大きいです。あと、走って感じたのですが、すごく道路が硬い。中国の道路は戦車が走っても可能なように硬いと聞いていますが、今まで中国のマラソンを走った中では一番硬く感じたコンクリートの道路でした。脚がいつも違う疲労の溜まり方でした。

00~10km 50分10秒 @5分00秒
10~20km 49分57秒 @4分58秒
20~30Km 49分46秒 @4分57秒
30~41Km 57分39秒 @5分12秒
41~ゴール 5分53秒  @4分53秒

妻にメールで報告したのですが「完走したからいいんじゃない、記録にこだわる歳じゃないよ。ともだちとの交流を楽しんできて・・・」。ごもっともです。

今回の重慶国際マラソンはロンドンオリンピックの代表選考を兼ねているので、中国の一流選手が参加しました。また、賞金を狙ってケニヤ勢が参加しており、全体としてレベルの高いマラソン大会になったようです。男子フルマラソンの完走者1177人のうち私は244位でした。成績一覧表に年齢が書かれていないのではっきりはわかりませんが、年代別では私は上位の方だと思います。

フルマラソン(全程马拉松)の成績一覧(クリックすると全程成绩查询.xlsが現れます)

何歳までフルマラソンを走るのか未定ですが、今回も中国の仲間たちと10月の北京マラソン、12月の上海国マラソンへの参加の約束をしてきました。私のマラソン挑戦はまだまだ続きそうです。

(重慶市内観光は次回アップします)


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by zuixihuan | 2012-03-23 06:44 | 読者の投稿 | Comments(0)

2012年3月は重慶マラソン

3月は中国の重慶マラソンに参加。

中国だい好き・会員の西垣内です。

私的なことですが、3月に重慶マラソンに参加するために上海経由で重慶に行ってくる予定です。
日程は3月13日出発、17日重慶マラソン、21日帰国。

すでに東京から上海までの飛行機は予約済み。上海の友人に、上海から重慶までの飛行機の予約、マラソン参加申し込み、重慶のホテル予約をお願いしています。先日、中国の友人から上海―重慶の飛行機予約が確定したと連絡がありました。これで準備OKです。

重慶マラソンは昨年から開始したマラソンで今回は第2回目。ホントは第1回目に参加したかったのですが、年齢制限が60歳という珍しいマラソン。すでに60歳を過ぎていたので昨年は申込をあきらめました。しかし、今回は中国のマラソンクラブ経由で申し込みました。

重慶は4つある中国政府直轄都市(北京、上海、天津、重慶)のひとつです。人口は一番多く、3000万人くらいいるそうです。また、夏は暑い都市と聞いています。中国の内陸部に行くには時間がかかり困難です。この重慶も上海から飛行機で2時間、列車だと20数時間かかります。マラソン組織委員会のホームページの「重慶概況」を読むととても興味が湧いてくる都市です。5泊しますが、走るのは3時間半なので、あとの時間は観光してきます。

予算は
東京・上海の往復 22000円 (茨城空港から春秋航空で)
上海・重慶の飛行機往復 760元(9880円、これも春秋航空)
重慶のホテル 750元(シングル1泊150元を5泊、合計9750円)
マラソン参加費 50元(650円)
合計 42280円

これに都内交通費、中国市内交通費、食事、友人へのおみやげなどあるので、妻に請求する金額は5万円。
以前は中国に走りに行くときには10万円もらっていましたが、最近は5万円。半額が相場の時代になりました。

2012重慶国際マラソン
(↑ 大会の公式ホームページ)

全程马拉松(42.195公里 )のコース
重庆南滨公园门口(起点)——朝天门大桥下(折返)——重庆南滨公园门口——长江大桥下——菜园坝大桥下——鹅公岩大桥下——美堤雅城路口——李家沱大桥 下——融汇小区路口(折返)——李家沱大桥下——美堤雅城路口——鹅公岩大桥下——菜园坝大桥下——长江大桥下——重庆南滨公园门口(终点)。

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by zuixihuan | 2012-02-03 16:08 | 読者の投稿 | Comments(0)

ノーベル賞報道をめぐる雑感


内田知行


2010年12月11日(土曜日)。この日の新聞には北欧からのノーベル賞受賞のニュースが一面に報道されていた。ストックホルムからのニュースは、化学賞を受賞した二人の日本人化学者の喜びを伝えていた。もっとも、私が関心を抱いたのはオスロからの平和賞の受賞報道である。平和賞授賞式の写真が新聞の一面に掲載されていた。

今年度の受賞者は、自国の不自由な政治体制を批判している勇気ある知識人だが、彼は政治犯として獄中にいるために受賞の喜びを人々と分かち合うことができない。授賞式では、にこやかに微笑む主役の大きな写真の下に、空っぽの椅子が配置されており、椅子の上には受賞証書とメダルが置かれている。報道によると、過去にノーベル平和賞の授賞式に出られなかった受賞者は4人いる。1935年のカール・オシエツキー(ドイツ人、ナチス政権によって収容所に送られていた平和運動家)、1975年のアンドレイ・サハロフ(旧ソ連の専制政治を批判しつづけた人権派の科学者)、1983年のレフ・ワレサ(ポーランドの旧自主管理労働組合「連帯」議長)、1991年のアウンサン・スーチー(ミャンマーの女性民主化運動指導者)である。彼らのうちサハロフとワレサはそれぞれ夫人が代理出席し、スーチーは夫と息子が代理出席した。なんと証書の受取人のいない授賞式はオシエツキー以来である。夫人は自宅軟禁状態で携帯電話も強権的に切断されているという。平たく言うと、夫人や親族が本人の代理として出国することすら認めていない彼の国は、悲しいかな、ナチス・ドイツ級の反人権体質の国家なのである。この国の政府はノーベル平和賞の授与を「政治的な茶番劇」と論評しているのだが(朝日新聞12月11日)、他方でこの国の政府はノーベル平和賞の向こうを張って12月10日に「孔子平和賞」なるものの第1回受賞者を決めた。栄誉ある第1回目の受賞者は、連戦(元「中華民国副総統」)であるが、受賞を通知されていなかった連戦はもちろん授賞式には行かなかった(東京新聞12月10日)。私たち常識人は、これを「政治的な茶番劇」という。「中国はひとつ」とよく言うが、もうひとつの中国=台湾の馬英九総統は12月10日、台北市内であった「アジア民主人権賞」式典であいさつをして、今回のノーベル賞受賞を歓迎し、「本家」にたいして受賞者の牢獄からの釈放を改めて求めた(朝日新聞12月11日)。「本家」は「分家」に古色蒼然としたネーミングの賞なんかやるよりも、「分家」のまともな議論を粛々として受け入れたほうがよい。そもそも孔子なんていう哲人は平和よりも忠君愛国、父権への孝行のシンボルがふさわしい。

オスロで開かれた授賞式では、ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長が、「平和賞は中国への抗議ではない」と言葉を選びながら、人権は普遍的な価値であり、西欧基準の押しつけではない、と強調した(東京新聞12月11日)。授賞式後の夕食会にはノルウェー国王を始め各国大使など約1300人が列席した。そのなかには、香港や米国からやってきた約50人の中国人の民主活動家も含まれる。同夜は受賞者を祝う恒例の「たいまつ集会」が地元市民たち1000人以上を集めて開かれたという(東京新聞12月11日夕刊)。

受賞者の母国は、受賞決定直後にはまず受賞の国際報道を封殺し、国内で報道を遮断した。それが不可能とみるや受賞者へのネガティブ・キャンペーンを始めた。たとえば、党機関紙傘下の国際情報紙『環球時報』(11月1日)は、受賞者を「アメリカ情報機関と関係する組織から資金を受け取っていた」「(1989年6月の天安門事件後に逮捕されたさいに)号泣して助けを求めた」云々と中傷した。そして、中国の「人権観」は西欧のそれとは異なると主張し、「国家主権の保全こそ、国民の人権や自由の基礎となるものである」(チャイナ・デイリー)という議論を提起している(朝日新聞11月5日)。どうも、彼の国の権力者たちは、国家主権の名の下で人民の権利や自由を封殺した諸外国の歴史を学んだことがないようである。それが難しければ、「中華民族主義」という国権を高揚させながら自国内の少数民族の人権を抑圧するわが身を省みればよい。

もっとも、受賞決定前後に、同国では、私が尊敬する李鋭老人を筆頭とする気骨のある知識人23人が「言論と出版の自由」を求める公開書簡を発表したことは、つとに知られている。この公開書簡の発起人であった75歳の鉄流は、平和賞の受賞は「当然」としたうえで、「欲張りで腐敗したこの国の利益集団が人民の富を略奪し、世論を封殺している」と厳しい批判をしていた(朝日新聞11月7日)。だから、いまさら私が屋上に屋を重ねるようなコメントをする必要はないかもしれない。いずれにせよ、かの国の権力者たちは、受賞者とノーベル賞委員会にたいしてさまざまなやり口で品のないケチをつけてきたが、授賞式当日の12月10日、彼の国の外務省副報道局長は、受賞を「内政干渉であり、断固反対する」という、大国らしからぬ小児病的な談話を発表した(朝日新聞12月11日)。そして、最後には、授賞式に招待された国々への出席妨害を図るというえげつない挙に出たのである。すなわち、彼の国の政府高官は、「誤った選択をすれば、結果に責任を負わなければいけない」と招待への欠席をもとめ、世界第二の経済力を背景に「踏み絵」を迫ったのである。その結果として、65の招待国のうち17か国が欠席したという(朝日新聞12月11日)。

主人公のいない式場では、ノルウェーを代表する名女優リブ・ウルマンが、受賞者が2009年12月に裁判審理で読み上げるために書いた「私には敵はいない」と題した陳述文の英訳を代読した。良心と理想と品位に満ちた文章である。「私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。いかなる力も自由をもとめる人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。私は、こうした進歩が本件の審理でも体現され、法廷が公正な裁決をくだすと期待している、歴史の検証に耐えうる裁決を。……私は期待する。私が中国で綿々と続いてきた言論による投獄の最後の被害者になることを。表現の自由は人権の基であり、人間らしさの源であり、心理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、審理を抑圧することである…」(「劉氏の代読文書 私には敵はいない」朝日新聞12月11日)。

本国の市民たちがこの理想主義的で風格のある文章を母語で読むことができないのが、私にはなんとも惜しまれる。もっとも、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と格調の高い弁論文を読み上げて下獄したフィデル・カストロがキューバ建国の父になったことや、獄中にいた詩人ハベルがスターリン型社会主義から民主主義への無血革命ののちチェコ大統領に選ばれたこと、さらには青壮年期の大半を獄中で過ごしたのち反アパルトヘイト闘争を勝ち抜いたネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の大統領に選ばれたことなどを想起するならば、遅かれ早かれ今引用した文章の全文が中国語で読める時代がくるかもしれない。その時期の早からんことを切に願う。蛇足ながら、授賞式を欠席した招待国のなかにキューバがあったことは、残念なことである。フィデルの革命の理想よりも国益を優先したということであろうか。

なお、翌11日午後のTBSラジオの番組でニュース・キャスターの久米宏が「新生の共和国の大統領になるかもしれない人物」というコメントをしたことには、思わずうなずいてしまった。指導力のある政治家も哲学者もいないわが国の現状と比べて、専制権力者のいる国には立派な哲学者も同時に生まれるんだなあ、とつくづく思った。

12月11日の夜は、最近買ったDVDを我が家で観た。クリント・イーストウッド監督のアメリカ映画『負けざる者たち』(INVICTUS)である。モーガン・フリーマンが27年間の獄中生活から解放されて大統領となったネルソン・マンデラを好演している。マンデラは大統領就任後、旧支配者だった白人への復讐心を否定し、彼らを赦して、国民の心をひとつに結びつけるために尽力する。民族の融和のためにマンデラが着眼したのは、白人が独占したスポーツだったラグビーである。弱小のナショナルチームは、肌の色の違いを超えて人びとに愛されるチームとなり、ついには1995年の南アフリカ・ワールド・カップで優勝する。非暴力によって反アパルトヘイト闘争を勝ち抜いたマンデラの理想が鮮やかに描かれた、スポーツ映画である。もちろん実話に基づいた物語だ。映画のクライマックスは、南アフリカとニュージーランドとの決勝戦である。「自由のためにともに生きよう」という歌詞をもつ新生南アフリカ国歌があらゆる肌の色の人々によって歌われる。ニュージーランド・チームは、試合の直前に「マオリ族の出陣の踊り」をグラウンドで舞う。これは、ニュージーランドがすでに少数民族マオリ族との融和をなしとげた人権と民主主義の国家であることを示唆する場面である。日本人の一人としてはうらやましい光景だ。

映画の終わりに、マンデラの理想が女声の独唱にのせて謳われる。

私には大きな夢がある        とても大切なすばらしい夢

国ぐにが互いに結びついて      ひとつの世界になること

あらゆる人びとが手をたずさえ    ひとつの思い、ひとつの心に

すべての信条、すべての肌の色が   垣根をこえてひとつに集まる

自らの可能性を探りながら      それぞれの力を発揮していく

勝っても負けても引き分けても    みんなの心に勝者が宿る

世界の国ぐにが互いに結びついて   ひとつのゆるぎない世界に

運命をつかもうと努力するなら    新しい時代が開けていく

険しい山を越えようとも       荒々しい海を渡ろうとも

いつかくる輝かしい日のために    誇りをもって進んでいこう

もてる力をすべて出しきり      ともにゴールをめざすなら

勝っても負けても引き分けても    みんな勝利を手にする……

この映画は白人と黒人とのあいだの憎悪を溶かし、反目を乗りこえ、ひとつの社会、ひとつの世界を非暴力で実現した指導者の物語である。ネルソン・マンデラと劉暁波の共通点、それは言葉に自分の理想を懸けて、非暴力で世界を変えようとする(変えていった)意志の強さである。彼らは、言葉(ペン)によって不条理の国家権力に立ち向かっている(立ち向かった)。それゆえ、暴力で屈服させようとする国家権力は彼らを恐れるのである。

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by zuixihuan | 2010-12-15 04:18 | 読者の投稿 | Comments(1)
南京の日中関係史史跡を見学しました                                                
   内田 知行

 2010年8月1日から29日まで中国現地研修の引率者として上海にいました。13日から15日のあいだには、蘇州・南京への小旅行をしました。蘇州では、中国を代表する名刹・寒山寺や、真ん中から15度に傾いた「蘇州の斜塔」で有名な虎丘山を参観しました。蘇州のクリークでは、民船に乗って船遊びに興じました。クリークを渡るそよ風を受けながら、船頭さんが歌ってくれる蘇州の「民歌」を楽しみました。

 南京では、中華民国時代の史跡、総統府と孫文のお墓(中山陵)を見学しました。南京は戦争中の日本軍による占領の爪痕が残っている都市でもあります。南京では、14日の夜、南京大学歴史学院の曹大臣先生が会いにきてくれました。十数年来の旧友です。曹先生は近代日中関係史の専門家で、近年『近代日本在華領事制度』というライフワークを上梓されました。15日の午前中は、曹先生の案内で南京市内に残る日中関係史の史跡を巡り、その後「南京大屠殺紀念館」を見学しました。

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(旧日本領事館の建物)

 朝8時、ホテル出発。南京大学キャンパスの近くでバスを下車して、日本軍占領時代の日本大使館跡(今はまったく違う建物になっている)と隣の日本領事館の建物(「三陵科技」という看板を掲げた会社の事務所になっている)を見ました。南京に1940年3月に汪精衛「国民政府」が設立されると、実態は日本軍占領下の「偽政権」でしたが、名義上は独立国として遇されました。そこで、南京に大使館が発足しました。他方で、汪政権の在日大使館も1941年1月に東京に設立されました。もっとも南京の日本領事館設立は早くて、1908年6月に設立されました。領事関係業務を担当したので、大使館とは別に日本軍占領時代も併置されたのです。日本政府は中華民国にたいする外交上の呼称として「支那共和国」を使用していたが、汪政権の時代になって、初めて「中華民国」と呼称する政策を採りました。中国人が「支那」を蔑称として嫌ったのはいうまでもありません。旧日本領事館を見学したあと、南京大学の門からキャンパスに入りました。

 このキャンパスは1937年11月に南京虐殺事件が発生したときに「国際安全区」に指定され、駆け込んだ中国人難民を保護救済した場所でした。南京大学は民国期にはアメリカのクリスチャン系の大学、金陵大学でした。いまでもキャンパス内には重厚なその時代の建築物が残されています。当時の校長室の置かれた管理棟は、いまでは南京大学校長執務室の建物として使われています。その近くには昔のチャペルもあり、今では映画上映や集会などに利用されています。

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(旧南京神社の拝殿)

キャンパス内を少し歩いて、旧南京神社跡を見学しました。南京神社は南京大学の体育館の隣にあります。といっても現在残っているのは神社の一番奥に位置する拝殿の部分だけです。曹先生の調査によると、南京神社は日本軍占領時代の1939年ごろに建立されました。靖国神社を模倣して建てられました。日本軍占領時代の中国には多くの神社が建立されましたが、南京神社は中国大陸に今でも残存する数少ない神社だそうです。大きな神社の鳥居は大学の体育館建設時に取り壊されてしまいました。拝殿は屋根のある建物だったので、転用が利きかろうじて残されたのだそうです。でも、戦時中神社の拝殿だったことを知る人はほとんどいないそうです。なお、華中占領地の戦闘で戦死した日本兵は南京の近くで火葬され、遺骨は一時的に南京神社に保管されました。遺骨は一定の期間ごとに上海港経由で日本に送られました。そのさいに遺骨の一部は分骨されて南京神社にも置かれたそうです。日本に移送された後は、陸軍墓地や海軍墓地、さらに出身地の墓地に埋葬されました。神社を建立し管理する団体として当時、英霊顕彰会が設立されました(1939年)が、これが戦後の日本遺族会です。

 今回は見学の時間がありませんでしたが、曹先生によれば、市内の菊花台には日本人墓地跡があります。これは、20世紀初頭以降に南京にやってきてここで死去した日本人を葬った墓地で、戦争とは直接関係のない死者の墓地です。ちなみに、日中戦争直前の1937年頃の「日本帝国臣民」居留者の統計は下記のとおりです(曹先生の示教)。

   区分   南京市         (参考)    上海市 
  日本人   163人               23772人
  朝鮮人   243                 2227
  台湾人    38                  678
   計    444人               26677人
 南京に「日本人」が激増したのは、占領以降だったことがわかります。

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(南京大虐殺記念館)

 「史跡巡り」を終えたあと、バスで「南京大屠殺紀念館」に向かいました。この紀念館は、「愛国教育基地」の一つということで、数年前から見学無料になっています。
 入場すると、野外のオープン・スペースに犠牲者を追悼する彫像作品がいくつも展示されています。大きな壁面に「犠牲者30万人」という数字が中国語、日本語、英語、ハングル、フランス語、ロシア語、その他多くの言語で刻まれています。30万人という数字については日本人の中には異論もありますが、これは中国人が犠牲者を悼んで建立した博物館です。死者は言葉を発することはできませんから、正確な数字は捉えようがありませんが、この数字を支持できない人も中国人の推定数字として尊重すべきでしょう。要は数字の差ではありません。30万でも20万でも、15万でも5万でも無辜の人間が大量に虐殺された史実には変わりがありません。30万というのは調査研究の過程における暫定数値にすぎないのです。

 開戦直前の1937年5月の南京地区の人口は下記の通りです(館内展示)。
      南京城区   85万5632人
      南京郷鎮   16万1182人
       計    101万6814人

 展示では、占領以前の1937年7~10月には日本本土からの洋上爆撃によって南京市街は大きな被害をうけたこと、中国空軍兵やソ連の義勇兵による迎撃戦によって日本軍航空兵も撃墜されたことが説明されています。撃墜された日本軍パイロットの捕虜らが厚い冬用コートを着て立っている写真もあります。日本軍が捕虜を片っ端から殺したのに、中国軍がきちんと待遇したことがわかる材料です。日本軍の南京占領以前に日本軍と抗戦した国民政府各軍の将官の写真も経歴付きで展示されています。国民政府による南京地区の抗戦についても、きちんと歴史的評価をした展示になっているのです。

 1937年11月に設立された国際安全区(南京安全区国際委員会)の外国人指導者たちも写真入で紹介されています。ナチス党員だったシーメンス職員のジョン・ラーベ(同委員会主席)の業績は比較的詳しく紹介されています。当時の日独関係を利用してラーベが中国人難民救助活動の先頭にたったことがわかります。安全区の委員の多くはアメリカ人でしたが、なかに Bernhard A. Sindberg(ベルンハルド・シンベルク)というデンマーク人が一人いました。展示の説明によると、安全区の面積は3.86平方キロ、中には25か所の難民収容所があり、ピーク時には約25万人の難民を収容したそうです。

 南京市内には中国人経営のセメント工場がありましたが、展示の写真によると、その資産を日本軍の略奪から守るために「ドイツ・デンマーク合営」(徳丹国合営水泥廠)の看板と両国国旗を掲げていました。第2次大戦時代のデンマークはドイツ軍占領下の保護国でした。当時の国際関係を利用した知恵です。

 この博物館には10年以上も前に来たことがあります。そのときは規模も小さくて、文字通り虐殺の歴史だけを見せられたような記憶があります。今回館内の展示をみて思うことは、展示が冷静で客観的になったことです。すでに書きましたが、南京に駐屯し抗戦した国民政府各軍将官をきちんと紹介しています。蒋とともに台湾に逃げていった軍人たちも紹介していますし、大陸に残った軍人たちについては共和国時代の事跡も紹介しています。虐殺発生以前の戦争の経過、国際安全区を拠点にした外国人による各種の救援活動、戦後の裁判、幸存者の証言、日本人兵士の証言、欧米や日本側の史料の利用など、展示全体が構造的です。近年の日中の学術交流や諸外国との学術交流の成果を反映したものになっています。展示の説明のなかでも出てくるのは「日軍」「日本軍」という言葉であり、説明の中には反日本人の感情を醸成する「日本鬼子」「東洋鬼子」「日寇」などという言葉はひとつもありません。歴史を忘れないという意味で「南京事件」の記憶を中国人の民族的記憶として定着させるという努力はしているものの、それを反日感情の形成に誘導するということは戒めているという見識が展示全体から伝わってきます。日中関係が安定して成熟した関係になりつつあることを反映しています。

 あとで紀念館を見学した感想を一緒に行った学生さんに聞きました。感情的反発が先行して展示の内容から歴史の体験をきちんと受けとめることのできない学生がいたことは、惜しまれました。
 15日の午後5時すぎ、上海に到着しました。帰路は順調でした。


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by zuixihuan | 2010-09-24 08:08 | 読者の投稿 | Comments(0)
上海万博を見物してきました                             内田 知行

8月1日から29日まで、勤務先の大学の研修引率者として上海にいました。今夏の上海は連日猛暑が続き、大変厳しい毎日でした。8月7日(土曜日)の一日、人並みに万博をエンジョイしてきました。以下はその簡単なレポートです。
 
朝8時半に大学の宿舎前に集合し、バスに乗りました。バスを第7ゲート前で降りました。第7ゲート前で午後8時50分に再集合ということであとは自由見学となりました。
じつはゲートを入って正式の入場門の手前で長蛇の列ができていました。通過に30分くらいはかかりました。入場者の頭のうえを扇風機つきの噴霧器が水滴を撒くので、すこし涼しいのです。夏の朝の朝顔の気持ちがわかりました。
もっとも朝顔とちがって、押し合いへしあいの列も相当なもの。原因は、飛行機に搭乗するときのような厳重な持ち物検査なのです。
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もちろんペットボトルは没収です。そのかわり中の売店では3倍近くの値段で売っています。中国国内では、少数民族の民主化人権運動が一部で激化しているので、いわゆる「テロ」にたいする厳重警戒態勢を敷いているのでしょうか。警察国家・中国の一面かと、入る前から勘ぐってしまいました。私は学生諸君から分かれて、マイペースであまり並んでいない小国の展示館に入ってみました。見学したパビリオンと簡単なコメントを付けます。

1 ウクライナ(雑駁な説明。民芸品や記念品を売っているだけ)

2 クロアチア(通路の両側にワイドスクリーンで社会の説明をしていたが、説明は不十分。クロアチア産のネクタイやスカーフを売っていた。『クロアチア旅行交通地図』と『クロアチアの文化遺産』と題する中文パンフをもらった)

3 ノルウェー(森林の国をアピールするという趣旨で合板材で館内が作られているが、安普請のプレハブ小屋の感じ。映像紹介は多いものの歴史や文化経済などの説明はほとんどなくて、手抜きの印象である。『オスロ』、『ノルウェーの観光路線』と題する首都紹介の中文パンフをもらった)

4 リトアニア(バルト海沿海の小国。映像資料も説明内容もなかなか細かくて工夫がされている。展示からは、中国との友好関係に力を入れていこうとする意欲が感じられる。
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展示によると、「中国の領土に最初に足を踏み入れたリトアニア人は、Andrius Rudamina で、彼は17世紀に中国に派遣された。このときに彼は中文の著作を発表したが、中国で中文の著作を発表した唯一のリトアニア人である」、「リトアニアの旅行家Matas Salcius (1932年に中国で生活した)の統計によると、1930年代に上海に永住していたリトアニア人は約200人で、「リトアニア商場」や「Kauno パン店」、「Vilniaus 食堂」が上海で開業された」とある。私たちの知らないリトアニアと中国の関係が紹介されている。館内のリトアニア民族レストランにもそこそこ客が入っていた)

5 リビア(今となっては珍しいアラブの社会主義国。砂漠の灌漑・緑化事業を紹介する。記念品や民芸品売り場もなくて、商売っ気のない真面目な展示。これもお国柄か)

6 ナイジェリア(ちょっと印象の薄い国)

7 アンゴラ(西南アフリカの新興国で、中国への資源輸出国との由。渋谷のアパレル会社に行ったことのある男性エンジニアと名刺を交換した。ブラックアフリカの土俗的でカラフルな絵画作品を展示していた)

8 アルジェリア(入り口から曲がりくねって上がっていくと、首都アルジェのカスバを象徴するような高台に出る。そこで、現代アルジェリアの紹介フィルムを観る。帰り際にアルジェリア美人から「サハラ砂漠」の写真集、「カスバ」探索地図と、アルジェリア地方都市を紹介するDVDを2セットもらう。ジャン・ギャバン主演の『望郷』のことやジダン選手のことを話題にするとけっこう受けました)

9 チュニジア(美容の油を売っていたり、陶芸や金属細工の実演を見せてくれた)

10 スロベニア(代表的な文化人や芸術家を紹介しながら国家の歴史を説明する。足元に見えるのは家々の屋根かと思ったが、よく見ると同国で刊行された本のコピーだった)

11 アフリカ連合館(最も規模の大きな連合館。40余の国が出展。独立した「館」というよりも紹介の「コーナー」。くたびれてしまって3分の2の国は素通りしてしまった。文化や歴史を紹介する国もあったが、なかにはアフリカにおける位置も示さず、民芸品や特産品の展示即売を中心にする国もあり。ほとんどはパンフレットも準備していない。パンフをもらったのは、最古の独立国エチオピアだけ。それにしてもかつてのアフリカの星、ガーナやセネガル、ケニヤ、タンザニアなども独立した国家館を建てる財力がないのがちょっと悲しい。日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥にちなんで国名がつけられた「トーゴ」ではちょうど同国からの使節が訪問しており、その一人の技師先生と名刺を交換した。

面白かったのは、西アフリカの大西洋上にある群島国家「カーボベルデ」国の展示。
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「Global and Small Cape Verde」(仏得角)は15世紀にポルトガル人に発見され、ポルトガル人やその他のヨーロッパ人の移住が始まったが、同時にアフリカからも黒人が移住した。そこで、赤道アフリカの黒人と違って混血の結果、肌の色も骨格も違う黒人がここでは形成されたようである)

 さて、だいぶくたびれたけれども、地下鉄に乗って(運賃は無料)浦東の企業館群に夕方6時ごろ移動しました。駅から近くにある「日本産業館」は混んでいたので、敬遠しました。隣の「城市足跡館」など3館を見学しました。

12 城市足跡館(中国の名所旧跡のコピーのような展示。2階には興味も持てなかったので、すぐに出た)

13 国家電網館(上下と四方のガラスの壁全体からなるパニック・ルームが面白かった。昼間はずいぶん長い時間並ぶようであるが、十数分で入ることができた)

14 国家鉄路館(鉄道の過去・現在・将来についてリアルに説明していた。昔の蒸気機関車の現物やいまの中国新幹線車両の展示もあり。
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上海鉄路局管内の最新時刻表を購入してきた。鉄道マニアには楽しい展示が少なくない)

15 日本産業館(なにも見ないで、最後にチキンカレーを買って食った。まずかった。35元)

夜8時50分に再集合。9時半過ぎに宿舎に戻る。今日はよく歩きました。
面白かったのは、中国人が「万博パスポート」を手にもって、どこのパビリオンでもスタンプを捺してもらおうと並んでいたこと。なかには2、3人分の「パスポート」を持って並んでいました。きっと子供さんにせがまれていたのでしょう。
中国人は実利思考の民族だからきっとスタンプを集めると、金券をもらえるとか、プレゼントをもらえるとかいうことがあるのだろう、と勘ぐっていました。そのことを友人の上海人に尋ねたら、まったくの入場記念だそうです。
それにしても、「ここはどこの国だっけ?」なんて言いながら入っていくおばちゃんを見るのは楽しい。人気のサウジアラビア館などは昼間だと4、5時間も待つといいます。日本館だって1、2時間は待つそうです。結局、普通に庶民の口から名前の出てくるような国のパビリオンにはひとつも行きませんでした。

中国の庶民は、万博見物を通じて何を学んでいるのでしょうか。私は、ふたつあると思います。第1は、自分の希望を実現するためにきちんと整列することです。第2は、これまで興味のなかったアフリカ・ラテンアメリカ・欧州などの小国について学んでいることです。庶民も国家とともに途上国から新興工業国に脱皮しようとしているのです。私は高度成長時代に開催された大阪万博には行きませんでしたが、きっとその時代の日本人も同じ体験をしたのでしょう。
最後に、月末に重慶から上海にやってきた息子を誘ってもう一度行こうと思ったのですが、「ばくには興味がない」と言われ、替わりに日本食レストランとステーキハウスに連れて行きました。

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by zuixihuan | 2010-09-06 08:02 | 読者の投稿 | Comments(0)