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by zuixihuan

カテゴリ:重慶日記(完)( 15 )

重慶日記/(2009年1月24日)

 私の重慶滞在も残すところあと2か月となった。最近は集めた重慶地方史関係の史料整理と原稿作成のための準備作業に追われている。やっているのは歴史学であるが、歴史的現実のある部分は今に続いており、ある部分は今とは断絶している。集めた材料のうち断絶の面と継承(連続)の面について若干紹介して、私の勉強の経過報告にしたい。

 断絶面について。重慶は北京よりもはるかに西にある。いまでも毎朝7時過ぎには起床しているのであるが、大寒をすぎた最近では朝が来るのがまことに遅い。午前7時は午前5時前の暗さである。中国の標準時間は北京時間で、東西に長い国家であるのに、中国政府の制定した標準時間はひとつだけである。標準時間は重慶に住む私の体内時計とはまったく食い違っており、生活感覚がくるってしまう。こういう時間の決め方は、北京にいる権力者の都合だけを優先しており、地方の人々の生活感覚をまったく無視したやり方ではないか、と思う。こういう思いは、重慶に来るたびに私が感じていたことである。ところが、抗日戦争時代の史料をみていて気がついたことは、その時代の中国では複数の「標準時間」が採用されていたことであった。1939年5月に中央政府によって制定された「全国各地標準時間実施弁法」によれば、全国は東から長白区(東北地方)、中原区(華東)、隴蜀区(重慶、蘭州など)、回藏区、崑崙区に分かれていた。南京や上海・北平は中原区、重慶は隴蜀区であった。ハルビンが朝8時半のとき、上海は8時、重慶は7時、ラサやウルムチは6時、カシュガルは5時半だった。ただし、抗戦の臨時首都は重慶であった。国民政府の要人はすべて南京から重慶に転居していた。そこで、国民政府は、「軍事上の便宜」を考慮して1939年6月1日から暫定的に隴蜀時間を全国標準時に決めた。なんとその時代は重慶の生活時間が全国標準時になったのだ。その後、戦後の1945年11月に国民政府は5区域ごとの全国標準時制にもどした。この制度は国民党が共産党に敗れて台湾に敗走するまで続いた。共和国政府は全国に居住する民衆の便宜をかんがえたならば、米国並みに5地域ごとの標準時制を採用したほうが、よいのではないか。国民政府の政策の中にも継承すべき政策があったのだと、私は考えている。なお、抗日戦争中に日本は中国でまことに無茶な標準時を採用していた。それは、1942年2月1日から日本軍占領下の全中国で「日本標準時」の採用を強要したことである。これも支配者の都合の押し付けであった。

 継承面について。重慶で生活を始めて慣れなかったことのひとつは道路の横断であった。交通が完全に自動車優先であり、横断歩道や信号が極端にすくない。しかし、問題は歩道を横断するさいにどうしても最初に右側を見てしまうのである。車はまず向かって左手からくるのに、である。この事実にそうとう面食らってしまう。共和国政府が国民政府から継承した制度のうちのひとつは、自動車の右側通行である。もともと日本や英国と同じ自動車の左側通行制を採用していた中国が全国一斉に右側通行に移行したのは1946年1月1日からである。60年ちょっと前の出来事である。議論は戦争末期の1944年から始まり、対日戦勝時の1945年8月に議論が本格化した。その理由を探ると、いくつかあるが、抗戦末期におけるアメリカ車の輸入である。米国の軍事援助物資のなかでは自動車の輸入はそうとうに多かった。フォード、シボレー、ドッジ、スチュードベーカーなどである。これらアメリカ車の運転席は米国内が右側通行のために車両前方の左側にあった。輸入してそのまま中国国内で利用するのは大変に不便だった。運転操作性が悪いので、よく交通事故の遠因になった。そこで、運転席の改造をしたのであるが、そのコストは車両購入原価の5分の1もかかった。世界の趨勢も右側通行になっていた。そんなわけて当時の中国国民政府も自動車の通行方式を思い切って変えたのである。中華人民共和国の指導者は右よりも左が好きな人々だったが、こればかりは前政権を継承したのである。しかも、変更の遠因は「アメリカ帝国主義」の車両増加だった。

 そんなわけで、日常生活のなかにも伝統の継承と断絶が混在して、庶民の生活を律しているのである。
 

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by zuixihuan | 2009-01-26 04:15 | 重慶日記(完) | Comments(0)

重慶日記 第19信(2008年8月26日・内田知行)

 24日(日)の夜、北京オリンピックの閉幕式が行なわれた。戦いがすべて終わって、参加者たちは夜空に咲いた数千発の花火を堪能したことと思う。もっとも、お祭りが余りにも盛大だったので、虚脱感に襲われている人びとも少なくないかもしれない。
今回は、地の利を生かした中国は51個の金メダルを取り、アメリカに替わって金メダル大国になった。私も家族とともに毎日、テレビ観戦をしていたが、普段はそんなに聴くことがない『義勇軍行進曲』が朝に晩に流れて、すっかりお馴染みになった。
私自身は、天皇讃歌の『君が代』よりも、勇壮な『義勇軍行進曲』のほうが遥かに好きだが、こうも毎日聴かされると食傷気味になった。受賞者も観衆も一体となって口ずさむことのできるこの歌はいいもんだ、とこういう国歌をもたない国民の一員としては羨望を禁じえなかった。

テレビでは、中国人が金メダルを取ると、おおむね国旗の掲揚と『義勇軍行進曲』斉唱の場面が流された。しかも、有名選手であれば何度もその場面が大写しで再放送された。しかし、他国の勝者の場合は、テレビ放送はこの場面を省略することが少なくなかった。そういう点では、テレビ観戦の映像というものは極めて不公平なものである。つくづく、マスメディアというものは民衆を“想像の共同体”に一体化させる機能を果たしている、と思う。ただし、いずれのオリンピック主催国においても同様のマスメディア操作が行なわれているから、これは北京オリンピックだけの特徴ではない。東京オリンピックだってそうだった。
 
今回は、フェンシング、ボクシング、ヨット、ボートなどこれまでのオリンピックではメダルに縁のない競技まで中国は金メダルを取った。大声援を得て予想外の力を発揮した中国選手が少なくなかった。
卓球などは、メダルに近くなればなるほど、オリンピックというよりも中国の国内大会のような様相を呈して、正直言って興を殺がれた。他の国の選手が弱いのが問題なのだけれども。金メダルの顔よりも、金メダルが期待されたのに無冠だった選手の顔のほうが記憶に残った。たとえば、ハードル走で金メダルを期待されたのに競技直前に負傷でリタイヤした劉翔とか、米国のプロ・チームから帰国したバスケット・ボールの花形選手、姚明とか、である(ダフ屋は劉翔の出場予定の試合のチケットを8000元、日本円で13万余円で売ったという)。

メダルを取った中国選手が多すぎて、かえって彼らの悲哀にドラマを感じた。最も鮮明な印象を残したのは、やはり閉幕式当日に行なわれた男子マラソンだった。35キロくらいまでケニア、モロッコ、エチオピアの選手たちがデッド・ヒートを演じた。私は往年の名選手、アベベに似た哲人の風貌のエチオピア選手を声援していたが、最後にはケニアの選手が金メダルをもぎ取った。
 
オリンピックは最終的には、スポーツという平和的な手段による国家と国家による“戦闘”という側面は免れない、と思う。今でも世界各地に戦争はあるのだが、グローバルな大戦争の危機はない。それゆえ、「愛国の情」というかナショナリズムの感情を内面から激しく掻きたてられるような試合は、ほとんどなかった。
1964年東京大会の女子バレーボールの日本とソ連の決勝戦や、1968年メキシコ大会の女子体操の決勝戦などは、今でも私には鮮明な感動が残っている。当時の私たちの心情では、日本の女子バレーボール・チームは、「バレーボールに」勝ったのではなくて、「ソ連に」勝ったのだった。

それから4年後、チェコスロバキアはスターリン体制を内側から民主化しようとしてソ連軍の弾圧・占領を招いた。このとき、ベラ・チャスラフスカはチェコの体操代表としてメキシコに行った。ソ連によるさまざまな参加妨害工作を突破しての参加だった。優美で凛とした表情のベラは、上位にひしめくソ連選手を圧倒して個人総合の金メダルを取った。あのときは、ソ連を除くすべての国の人びとが、ベラの一挙手一投足に声援を送っていた。ベラはジャンヌ・ダークとなってソ連を打ち負かしたのだった(彼女は帰国後も民主化運動に参加して、長く迫害された)。

1960年のイタリア大会では、無名のアベベが裸足で快走し、金メダルを取った。エチオピアに凱旋したアベベは国民的な英雄となった。その当時は、なぜスポーツ選手が国民的英雄なのか、私には訝しかった。後年になって、ムッソリーニのイタリアが1935年から37年にかけてエチオピアを侵略・占領して多くの民衆を虐殺したこと、エチオピア皇帝は英国亡命を余儀なくされたことを学んだ。アベベは、25年後にローマの丘を裸足で踏みつけて、イタリアに借りを返したのである。ただし、私の記憶にあるのは、靴を履いて寡黙に独走した東京大会のアベベである。

ハンガリーの国技は水球で、今回の北京大会でも金メダルを取った。1956年のハンガリー革命は、スターリン主義に抵抗した東欧で最大の民主化運動となったが、その運動はただちにソ連軍による流血の鎮圧を招いた。ハンガリーの水球チームは、戦車に蹂躙されたブダペストから粛粛と脱出して開催地メルボルンに向かった。同地での銅メダル決定戦でハンガリーはソ連に勝ち、メダルを取って国旗を揚げた。
この試合が、当時どんなにハンガリーの民衆を励ましたことか。昨年12月、ハンガリー語の佳作『君の涙、ドナウに流れ』を観て、初めて知った(タイトルは日本人向けの翻案)。これは、失われた1956年革命に水球を絡ませた、悲恋と愛国の作品である。私はチェコスロバキアやハンガリーの国籍には縁がないが、テレビや映画を観て一時的に他者の“想像の共同体”に連帯した。
 
上に述べたように、今回の北京大会ではナショナリズムの感情を内面から激しく掻きたてられるような試合はほとんどなかった。私は、これはかえって好ましいことだと思う。今次のスローガンを借りるならば、「一つの世界、一つの夢」に近づいているのである。
世界の警察官を任じている米国の金メダル数が激減し、ソ連の分解で多くの小国が生まれて跡目を継いだロシアのメダル数が減ったのも、慶事であろうか。私には、バルト海の小国リトアニアのバスケットボール・チームが準決勝に進出したのも、うれしかった。男子マラソンで全行程の3分の2までがんばった東アフリカの小国、エリトリアの選手がメダルを取れたならば、きっともっとうれしかっただろう。
日本チームの活躍した種目をテレビ観戦する機会は少なかったから、不満がないわけではない。しかし、自分の“想像の共同体”からは距離をもつことができた。これも、あながち悪いことではない。
 以上が、私の北京オリンピック大会テレビ観戦記である。

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by zuixihuan | 2008-09-07 11:02 | 重慶日記(完) | Comments(0)
  
重慶日記 第18信(2008年8月23日・ 内田 知行)

 22日、重慶師範大学のJ先生ご夫妻のお誘いで合川県にある「釣魚城」に出かけた。実は、養魚場で半日釣りを楽しんで、釣果をレストランに持っていって唐辛子や山椒などの調味料がたっぷり入った「紅焼魚」をたらふく食べるのか、と思っていた。
 
目的地は重慶市から約85キロ、高速道路で約1時間のところにある。合川県城に入ってやっと、「釣魚城」というのが南宋時代の古戦場だということが分かった。釣りの話など一度もしたことのないJ先生が「釣魚城」を案内してくださることの意味がやっと分かった。合川県城から嘉陵江の大橋を渡り、小高い山をどんどん上がっていく。標高約400メートルの岩山である。途中に門があり、入場料(門票)は1人30元だった。

海抜390メートル余の山頂は真っ平らで、日本の公立小学校の校庭位の広さはある。往時は南宋軍の練兵場だったという。参観にきた大型バスや乗用車が数台停まっていた。蒙古大軍の襲来を予知して南宋の軍人が「釣魚城」の防御工事に着手したのは1243年のことであった。
同城は1279年に元軍に投降して開城するまでの36年間抗戦を堅持した。同年南総が滅びて元朝による中国の統一が実現した。36年間に「釣魚城」は大小数百回の戦闘を交えたが、すべて防御に成功したという。
1259年には、チンギスハーンの孫にあたる蒙古の将軍、蒙哥大汗を戦死させるという戦果をあげた。城下に陣取った10万の蒙古軍にたいして、城内には宋兵4600余人を含む一万数千人が立て籠もった。城内の面積は2.5平方キロ、いまでも城の生垣は8キロも残っている。堅固な防御壁にくわえて、城内には多くの天水池や井戸があり、数千ムウの面積の開墾地があったという。つまり、「釣魚城」は一つの町であり、世界の古戦場の中でもじつにユニークな存在なのである。

「釣魚城」の城門は8つあり、そのうち最も良く保存されている護国門を見た。今では城門の外に石畳の道があるが、その昔は城壁に横穴をうがって、太い柱を水平に差し込みその上に木製の道路を作った。いわゆる「蜀の桟道」である。敵軍が攻めてくると、それを外して、敵軍の進路を断った。
岩山でできた「釣魚城」には、南宋以来文化人が訪れて碑記を書き残した。護国門を入った右側の後壁には、1943年に蒋介石が書いたという碑が残っている。「堅苦卓絶」という表現である。困難に耐えること想像を絶しているというくらいの意味になろうか。これは、南宋の長期抵抗にあやかって自らを鼓舞しようとした言葉であろう。
「堅苦」は蒋の造語で、「堅持」と「艱難辛苦」を組み合わせている。堅と艱とは中国語では同じ音である。1937年に開戦した抗日戦争も、先が見え始めていた。米軍によって太平洋戦線でも東南アジア戦線でも守勢にたたされた日本軍は、1943年には首都重慶への空爆も放棄していた。国民政府主席蒋介石は戦争終結後の国内政局をどのように予想しながら、この言葉を書いたのであろうか。

 蒋の碑のすぐ右側に「中央陸軍軍官学校特別訓練班十周年紀念碑記」(1943年7月中旬)という碑があった。国民政府の軍官学校が組織した夏期訓練班の設立十周年を記念した石碑である。
同年夏、この古戦場に訓練班がやってきてこれを記した。碑の最後に、「国恥をすすぐことを誓い、わが山河を取り返し、黄帝永世の子孫たることに恥じず、副委員長の十年の撫育に背かず」(誓雪国恥、還我河山、方不愧黄帝永世之子孫、斯不負蒋校長十年之培育)とある。また、石碑の前半には、「我が委員長[蒋介石]は東夷[日本]による辺境への侵略という辱めに耐えて、堅苦卓絶し、各軍を自ら率いた」(我委員長忍東夷侵辺之辱、堅苦卓絶、躬師各軍)と蒋の心情を記していた。

しかし、私にとって面白かったのは、「蒋委員長忍・・・・・・」の直前に置かれたこの石碑の冒頭の言葉である。それは、「維二十二年夏、乱賊敗政、行為辟方、致使国勢日盛、民不堪命」である。大意は、民国22年、すなわち1933年の夏、乱賊が政治を混乱に陥れ、その行動があちこちに広がって、そのために国勢は日増しに緊迫し、民衆は命を削るような苦しみを舐めた、というものである。

1930年代初頭、毛沢東や朱徳らの中国共産党軍は、江西・湖南・福建各省の農村に革命政権を設立して国民政府の秩序を脅かした。ところが、国民政府の大規模な攻勢によって政権の維持が困難になり、1933年夏、革命政権の主力は西南諸省に退却することになる。
彼らは、最終的には1年余の歳月をかけて陝西省北部に到着する。これが中国革命史に名高い“長征”である。当時の蒋介石の抗日政策は、「安内攘外」政策というもので、「攘外」(抗日)をやるにはまず「安内」(共産党の平定による挙国一致)をやらなくては、というものであった。そこで、この石碑でも「東夷」より先に「乱賊」が置かれた。つまり「抗日」の決意の前に「反共」が置かれたのである。

私には、こんな観光地にも国共関係史の歴史的な史料があったのが、面白かった。もっとも、ガイドの話では、蒋介石の碑も軍官学校の記念碑も1960年代の文化大革命時代には漆喰で覆われ、「毛主席万歳」その他の革命スローガンが書かれていた。1980年代に入って、もとの碑文が再び世に出たのだ。マア、革命が反革命を守ったのである。今の中国共産党には、半ば反革命の言辞も歴史史料として公開する大らかさがあるのだ。あるいは、これも台湾人や華僑の観光客むけの観光資源として見せてやろうという、したたかな計算なのだろうか。

[釣魚城]内には晩唐期の摩崖仏もある。身長11メートルの横臥仏がある。文革期に頭部が破壊されたが、1980年代に原状を復元したという。その右隣には、約2780体のミニ仏像を彫った千仏岩がある。高さ4.5メートル、幅7.4メートルの岸壁に細かく彫られている。惜しいかな、仏像は最上部1メートル弱の部分にわずかに残っているにすぎない。上部は風化によってくずれ、下から中段にかけての石壁はみごとに削り取られている。

文革時代、「釣魚城」を含んだこの地域には「東渡人民公社」という行政組織があった(人民公社は1980年代初頭に中央政府の号令によって全国的に解消され、鎮や村になった)。
文革時代には、全国で「破四旧」という、古い思想を排撃する運動が行われた。この地域でも、石刻、摩崖仏、古建築などが破壊された。この人民公社では、村人に千仏岩のミニ仏像1体を削り取るたびに日当0.2元を支給した。この他に、阿弥陀仏・観世音・大勢至菩薩からなる三聖仏はいずれも斬首され、三聖仏の下の千手観音も首を切られて胴体をえぐられた(三聖仏は1980年代後半に修復された)。打ち壊しに加担した庶民たちもその当時はスカッとしたかもしれないが、その結果が今の姿である。

1980年代初頭まで、護国門内は養豚場、忠義祠の建物は小学校の教室、薬師殿は村役場の事務所だった。1986年に四川省政府が「釣魚城」を文化財に決めて再開発に着手したとき、ここにはまだ東渡郷魚城村という村があった。政府は1986年に村人から「釣魚城」内の土地667ムウ(うち耕作地は275.5ムウ)を買い上げ、村人を下山させた。村人は、その後政府から再開発のための労働力として雇用された。言ってみれば、昔壊した人が、その後給与をもらって再建に努めたのである。文化というものは、民衆によって破壊され、民衆によって復活、伝承されるものなのである。
考えさせられることの多い、一日古戦場観光だった。

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by zuixihuan | 2008-09-07 11:01 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第11信(2008年6月3日・ 内田 知行)  

  5月12日に四川省西北部に発生した地震が未曾有の被害をもたらした。6月2日の国務院新聞弁公室の発表によれば、死者は6万9019人、負傷者は37万3573人、依然として行方不明の人が1万8627人に達している(『重慶晨報』6月3日)。だから今でも新聞やテレビは地震関連のニュースで埋め尽くされている。もっとも、それには一定の流れがある。発生から1週間は、被災者の救出が緊急の任務だったので、そのニュースが中心だった。その後は、余震や二次被害のニュースと救出されて被災地から安全な地域に移された負傷者たちのニュースが多くなった。とくに中小のダムの決壊の恐れ、川の堰き止めによって生まれた湖が決壊して洪水を発生させる恐れ、それに対応した住民の被災地からの集団避難作戦の報道が目を引いた。四川はその名の通り川の多い地方で、省内に6678のダムがあり、そのうち1803か所に地震後問題が生じた。379か所がとくに危険であり、そのうちの95.3%が綿陽・徳陽・広元など6か所の重大被災地にあるという(「四川高危険情水庫已有81座放空庫容」『重慶晨報』5月31日)。

  中央政府は、今回の地震直後から三峡ダムの無事について繰り返し公言している。しかし、巨大ダムが大地震を誘発する可能性について指摘する発言も現われた。「急を告げる西南の水力発電所」という文章によれば、「中国の西南部は地震活躍地帯の上にあり水力発電所の建設においては地震観測ネットワークがきわめて重要になっている」。この文章は、広東省の新豊江ダムの貯水後、マグニチュード3.1度、4.3度の地震が相次いで発生したことを記し、1962年3月19日に発生した6.1度の地震では、発電所の破壊により操業が停止され、死者6人、負傷者80人、倒壊家屋1800戸という被害が生じたと紹介する(広州『南方週末』5月15日)。いまさらそんなこと言われたって、という文章である。

  地震発生直後では、校舎の倒壊による小学生や中学生の死亡という痛ましいニュースがとりわけ注目された。杜撰な工事が各所の学校であったのでは、という議論が興った。被災地の北川県北川中学では校舎の倒壊で1000人以上が死去・生き埋めとなったが、校舎の隣の20年前の建物は倒壊を免れた。北川中学の校舎は優秀建築と認定された建物であったにもかかわらず、である。什方市では40余校の小中学校の校舎が倒壊し、880余人の生徒教員が生き埋めのままで、死者は597人、負傷者は2800余人、うち重傷者は547人を数えた(「北川中学教学楼將鑑定」『重慶晨報』5月27日)。綿竹市五福鎮では校舎の倒壊で127人の小学生が亡くなった。25日午前、わが子を亡くした親とその支援者数百人が綿竹市政府の上部機関にあたる徳陽市まで、倒壊の原因究明を求める抗議デモを行なった。中共綿竹市委書記の蒋某はデモ隊の前進を食い止めようとして土下座した。親たちはそれを無視して前進したが、徳陽市から派遣された幹部の説得によってデモを収拾した(「綿竹市委書記当街下跪」『重慶晨報』5月27日)。普段であれば、地元の中共委員会は警察を動員してデモ隊などわけなく蹴散らしたであろうが、今回はそれができなかった。指導者としての無能ぶりが上部機関に露見するのを恐れての土下座であったが、それも効を奏しなかったのである。今後、一人っ子を亡くした親たちの怒りはますます激しくなるであろう。今回は被災地の生々しい様子を伝える報道が中国国内ばかりでなく、世界を駆け巡った。一種の報道合戦が発生した。悲惨な災害であるが、情報公開が進み中国社会がもっと風通しのよい、住みよい社会になることを期待したい。

  地震から3週間を過ぎると、新聞やテレビでは救助をめぐる美談が増えてきた。そして、負傷者・被害者の慰労と募金活動のニュースが俄然増した。『重慶晨報』の5月28~30日の記事では、重慶市内の病院に収容されている負傷児童の名前・年齢・負傷状況・家庭事情・今の願いが写真入りで紹介されている。たとえば、路雪梅・女・9歳「一緒に寝てくれるお人形さんがほしい」、陳洋・男・11歳「リモコンカー」といった具合である。じつは、6月1日の夜、友人たちの宴席に茜といっしょに招かれた。当然ながら地震が話題の中心になった。早口の重慶弁になかなかついていけなかったが、先進国の日本で地震が起きても政府はこんなに民衆に献金を強いることはなかった、と神戸の大震災を体験した友人が発言した。その人は、地震報道はあまりにも一面的ではないか、とも述べた。その発言を受けたもう一人が、その通りだけれど、それには意図があるからだ、と受けた。どういう意図かといえば、献金キャンペーンを積極化してみんなの同情を得るのだという。発展途上国の中国は政府に金が足りないから、民間の善意がいっそう必要なのだという。私もニュース報道に政府の強い意図を感じているから、地震報道が一面的だという率直な発言には共感した。献金では、現在すでに党員7000万人を超えるという中共党員にたいして被災地への献金目的の「特殊党費」の献納が発生から10日後頃から始まった。あくまでもボランタリーであることを強調しているのだが、金額の多寡によって区別をつけているところが中国的特色である。南京市の例では、1000元以下の「特殊党費」は地域の党組織を通じて江蘇省委組織部に、1000元を超える金額は北京の中共中央組織部にそれぞれ振込まれる(「積極自願交納“特殊党費”支援災区」『南京日報』5月21日)。わざわざ窓口をふたつ設定するのは、被災地の便宜のためではない、と私は思う。自分の将来の「便宜」のために中央にたくさん献金して点数稼ぎをしよう、という金持ち党員が出てくるように、という誘導作戦なのだろうか。南京市では、5月24日正午までに5万3826人が2086万1300元の「特殊党費」を献金した(我市広大党員踊躍交納“特殊党費”」『南京日報』5月25日)。一人当り388元である。南京では、収入のない大学院生の党員にたいしても、なかば強制寄付の形で「特殊党費」の請求があるというぼやきを耳にした。

  ここ数日の地震関連ニュースは、ずいぶんと多面的になった。6月中旬には全国で大学統一入試が始まる。そこで、5月21日、教育部(つまり文部科学省)高等教育局は、今後数年以内に政府や企業が必要とする人材として、水利土木・気象学・地質学などの専門家が必要になり、そうした分野は待遇や収入も「不錯」(悪くない)と受験を誘導する発言をした(「国家急需水利・気象・地質等行業人才、工作条件和収入都不錯」『重慶晨報』5月28日)。大学受験生は学部学科の受験選択だけではなく、受験科目にも軌道修正が必要になった。重慶市では、名門進学高校の地理教師が中国西部地震帶にかんする出題の可能性がある、と発言した。もっとも、その先生の御宣託によれば、「知識は運用にある。今回の特大地震が直接大学入試にでる可能性はないが、地震と交通というのは出題の2大焦点になるだろう」とのことである(「高考地理復習、関注西部地震帶」『重慶晨報』5月28日)。試験の範囲が広がって、受験生もたいへんだ。

  一人っ子が多数亡くなったことで、政府は産児制限政策の軌道修正も迫られている。5月25日、成都市の産児制限委員会は一人っ子が死亡または肢体不自由児になった被災地の両親にたいして出産許可をあたえる緊急通知を発した。通知によれば、対象は「父母一方の年齢が満50歳以上」の家庭で、今年から適用される。地域の政府に出産希望申請を登記すれば「出産の権利」を告知され、「出産服務証」を発給される。一人っ子が地震によって障害児になった場合は、医学的な鑑定をへて許可される。そのさいには、政府は「当事者の申請を積極的に支援して再度の出産を照顧する」(「独生子女地震中死亡、成都允許家庭再生育」『重慶晨報』5月26日)。「照顧」とは、便宜を与えるという意味である。ここに表明されている思想は、障害者は労働力ではないという、ナチスに典型的に見られた優生思想を連想させて、私には釈然としない。ともあれ、以上のような産児制限政策の軌道修正は、5月29日の国務院抗震救災総指揮部会議でも了承された(「地震中子女死傷、給予再生育政策照顧」『重慶晨報』5月31日)。

  被災地の状況はどうなっているか。政府は懸命に防疫に努力し、コレラ・A型B型肝炎・狂犬病などの予防接種に努めている。のちの環境汚染が恐ろしいくらい大量に消毒液や殺鼠剤を散布している。にもかかわらず、「最近下痢症状や発熱症状が増加している」(「災区腹瀉發焼的群衆在増多」『重慶晨報』5月28日)という。また、社会的な混乱に乗じた嬰児誘拐事件も発生した。5月16日、余震の収まらない江油市の旅館にすやすやと眠る嬰児をかかえた5人の女性が現われた。通報によって警察に捕縛された5人はいずれも粉ミルク・紙おむつと大量の睡眠薬(これは嬰児を眠らせるため)をもっていた。山東省臨沂市まで連れていって人買いに引き渡すつもりだった。この方法で一人当り1500元の「運輸費」が手に入るはずだったという。誘拐は防いだが、今度は親の特定が難しいという(「人販子潜進災区、欲拐賣5名嬰児」『重慶晨報』5月28日)。

  2000年の歴史をもつ水利施設、都江堰も大きな被害をうけた。成都市内にある唐代の詩人、杜甫の草堂も建築物の一部が倒壊し、武侯祠も壁が崩落した。こうした被害から大打撃を受けたのが観光業である。日本でも、能登半島の地震の後で観光業が干上がってしまったが、同じ現象が起きている。5月20日までの最初の1週間余のあいだに四川省の観光業が受けた損失は315.47億元、うち観光拠点のホテル・各種接待施設などの破損による被害額は92.33億元になったという。成都は九寨溝観光の拠点だが、成都ー九寨溝の黄金ルートは閑古鳥が鳴いている。7000人いる成都の観光ガイドは失業状態で、なかには保険の勧誘員や商店の販売員に転業した者もいる(「成都7000導游暫時集体失業」『重慶晨報』5月28日)。ほとんど地震の被害をうけていない重慶市の観光業も風評被害を受けている。重慶のホテルや航空会社や観光地の収入は平時の半分に激減した。市内の一流ホテルでも旅行団や全国規模の会議のキャンセルが相次いだ(「地震殃及重慶旅游、近半国内旅行社面臨歇業」『重慶晨報』5月30日)。日本人相手の九寨溝ガイドに忙しい毎日を送っていたX氏は、地震以来毎日が日曜日となった。日本語の実力を買われて、とうとう広東省の合弁企業に転職することを決めた。

  地震が中国経済のマクロ的な発展に与える打撃については、たいしたことはないだろうというのが今のところの新聞論調である。ただし重慶市では、作れば瞬く間に売れてしまう不動産市場に震災後陰りが見えてきた。庶民の買い控えが発生して、業者は手持ちの物件を安値で売り始めたのである(「地震後市民不敢買房、開發商急找出路変現」『重慶晨報』6月4日)。しかしこの現象は、四川省やその近隣省区だけの現象であろう。

  被災地には大量の救援物資、多額の義援金が送られ続けている。そこで、どうやらこうした金品の横領も発生しているようである。中央政府は、5月28日に北京で会議を開き、救援物資の配分等をめぐる監督を強化することにした。政府の決めた7項目の重点活動のうちの最も重要な活動が次の第7項である。「救災物資・資金の横領・拘留・流用や“国難”を利用した金儲けのうちで性質の重大なるものは、道義的にも論理的にも許すことはできない。ひとたび摘発したら迅速に調査し、厳重に処罰し事態を公開しなければならない」(「發“国難財”天理難容、厳懲!」『重慶晨報』5月29日)。重慶市でも5月28日、市規律検査委員会・市監察局らによって「厳格な規律のもとで地震救災資金・物資の管理を強化することについての通知」が公布された。趣旨は中央政府による前引の文書と同様であるが、市民らによる内部告発のための電話ホット・ライン4本も提示している(「截留克扣救災物款、從重査処」『重慶晨報』5月30日)。また、政府資金や義援金を使用して被災者の支援や復旧のための資材の買付けが各地で行なわれている。この現状を考慮して、6月2日、中央の財政部は通達を公布した。それは、買付け機関は「財政部門が指定したところの物資買付け情報ネットワークその他に情報を開示して、社会の監督を受けなければならない」というものであった(「財政部:救災物資採購価要公布」『重慶晨報』6月3日)。なにやら、災害で焼け太りした機関や企業の発生をうかがわせる文書である。今はまだ政府によるこうした通達から事態の一端を推測できるにすぎないが、しばらくしたら善意の支援者たちをがっかりさせる事件が露見するかもしれない。民国時代の中国でも、自然災害に便乗して救災物資や資金をくすねた地方官僚の腐敗が跡を絶たなかった。こういう歴史は繰り返してほしくはないものだ。

  歴史の国、中国を実感させられる動きが、地震博物館建設の動きである。場所はまだ未定であるが、これには四川省文物考古研究所の所長らも積極的に提言している(「地震遺址博物館紀念地開始選址」『重慶晨報』6月4日)。日本なら、何年も経ってから慰霊塔(戦前なら神社)でも建てようか、という議論が興るところだろうか。それにしても、瓦礫のなかに眠っている被災者がまだ1万8000人前後はいるわけだから、地震博物館建設の議論はまだ早すぎはしまいか。

  地震が発生すると、日本は即座に消防庁の職員による緊急救助隊を派遣した。その後台湾や韓国からも救助隊が派遣されたが、日本隊は先陣を切って被災地に駆け付けた。これは当地の新聞でも取り上げられた。その後も日本から被災地に不可欠な高額医療用施設が送り届けられた。5月20日までの富豪による高額献金リストでは、外国人の第1位は韓国LG電子・大中華区CEOの禹南均の1700万人民元、第2位は松下電器中国有限公司董事長の城阪俊郎の1000万元であった。また、「地震先進国」日本の建築事情も好意的に紹介されている。小中学校の校舎はすべての建築物のなかでは最も強固な耐震構造になっていて、被災民の最初の非難所である。しかも、一部の学校には倉庫があり水や調理器具や燃料が備えられている(「国外建築如何防震」『南京日報』5月25日)。こうした文章は日本の現実を紹介する内容であるとは言いながら、読者に多くの小中学校の校舎が倒壊した事実を今更ながら想起させる効果をもっている。地震直前の胡錦涛国家主席の日本訪問が「天の時、地の利、人の和」を兼ね合わせた「暖春の旅」だった(「国際問題専家劉江永解読胡主席訪日」上海『新民晩報』5月10日)とすれば、地震にたいする日本政府の迅速な支援は暖春のボルテージをさらに引き上げたといえよう。日中関係についていえば、禍を転じて福となすことになった。

  じつは同じことは中国の対外関係全体にも言えるのではないか。私は外交問題の専門研究者ではないので、単なる印象を語れるに過ぎないが、今冬のチベット民主化運動にたいする中国政府の極めて高圧的な対応は、欧米の政府や知識人層からかなりの批判を招いていた。そのために、各国で繰り広げられていたオリンピックの聖火リレーにたいしては冷ややかな対応もあった。中国を視るそうした外部世界の視線が、この地震の発生で劇的に変化したのではないかと思う。北京オリンピックの前に立ちこめていた灰色の雲(「暗雲」という表現はいささかきついと思う)がこれで綺麗すっきりとぬぐい去られた、と外交素人としては感じている。

  中国政府は北京オリンピックを国威発揚の場として位置付けている。この2、3日のテレビを見ながら、地震もまた国威発揚の一環に位置付けられようとしている、と私は感じる。それを象徴する標語が新聞やテレビで最近目につく「中国、加油」(中国よ、がんばれ)である。テレビの被災者を激励するためのバラエティー番組では、若いタレントたちが「中国、加油」と声を張りあげている。私の屁理屈では、被災者もタレントも中国人であるのは間違いないが、中国そのものではない。被災者に「がんばれ」と声援する気持ちは私も同じだが、「中国、加油」という論理の飛躍にはいささか白けてしまう。重慶在住の彫刻好きの市民が、6月初め花崗岩を材質とする塑像を完成させた。右手の拳を高く天に突きあげ空を見あげて咆哮する、力強い男性の塑像である。制作者は、作品を被災にも挫けずたちあがった中国人を表現するために作ったと言い、作品を「中国、加油」と名付けると述べている(「重慶市民創作抗震雕塑」『重慶晨報』6月3日)。私は、せめて「大家、一起加油」(みんな一緒にがんばろうね)ぐらいにしてほしいのだが。

  被災地の児童の多くは、校舎が倒壊しクラスが解体してしまったために、外地の学校に転入している。重慶の小学校にもかなりの数の児童が来ているようである。たまたま6月2日夜のテレビでその様子を紹介していた。非被災地の子供たちは被災地から来た子供たちのために歓迎式典を開く。そして、式の終わりに国歌「義勇軍行進曲」をいっしょに歌う。抗日戦争直前の1935年に制作された青春映画のなかで歌われたこの歌は、抗日の戦場で中国の民衆たちが歌い継いだ愛唱歌である。建国後、中国政府はこの歌を国歌として認定した。「義勇軍」とは東北抗日運動の「義勇軍」であり、「敵」とは日本人である。70年以上の時代をへてこの歌は大地震という「敵」を克服するために、中国人みんなが心を一つにする、その目的で歌われている。非被災地の子供たちに被災地の子供たちの悲劇を共有させるために、国民を人民共和国という国家=想像の共同体の下に統合するために、国歌が歌われているのだ。地震発生以降、私は毎晩テレビの地震報道をみるようにしている。発生当初は、「義勇軍行進曲」どころではなかった。それが、時間の変化とともに四川省西北部住民たちの悲劇を全国民の悲劇として位置付け直す作業が、マスメディアを通じて実践され始めているのである。そのことを強く感じるのは、神戸地震のときも新潟中部地震のときも災害の救助や復興に国歌や国旗が一度もかかわったことがなかったという日本人の体験によるのかもしれない。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:49 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第10信(2008年5月26日・ 内田 知行)  

  昨日の夕方、茜といっしょに南京から重慶にもどった。中学校の寄宿舎にもどる準備をしていた陽一に一声かけて送り出した。

  南京では後半は第二歴史档案館に毎日のように通って一次史料を閲覧した。当時の中国国民政府の内部史料ばかりでほとんどが毛筆の文書で判読にひどく手間がかかる。档案館の規定では、筆写やパソコンを利用して判読入力するのは自由であるが、辞書もその他の参考図書も持ち込んではならない。毎日、「実力」だけで一次史料に立ち向かわなければならない。普段は根をつめて勉強する訓練をしていないから、2時間も史料を見続けると眼がかすんでくる。コピーの料金規定の不合理なことについては、すでに書いた。しかし、私がコピーを依頼しない理由は料金問題とは別のところにある。毛筆の文書に書込の修正があったり、黒い墨だけでなく鉛筆や赤インキもある。結局白黒コピーを大量に持ち帰っても、判読できずに放棄するのがオチである。でも、その場で内容を理解して書き取った内容は確実に自分の研究に利用できる。しかも、その場で史料を透かして読んだり、繰り返して読んでいるうちに、判読できなかったところが読めてくる。所詮コピーの史料はどんなに斜めに透かしても読めはしないのだから、「コピーをしておいて後で読もう」などという考えでは結局読めないのだ。非効率に見えても、筆写がいちばん良い学習法である。最終的には、透かして読む必要のない一部の史料だけコピーを頼んだ。

  金曜日の午後は、一人で南京市内観光をし、土曜日1日はC先生の家族(夫人と小2の娘さん)が私と茜(19日に南京にきた)を楊州観光に誘ってくださった。土曜日に見物したのは、南京市漢府街というところにある昆盧寺と、そのすぐ近くの「中国共産党代表団梅園新村紀念館」である。昆盧寺の拝観料は10元で、お坊さんがいる本当の寺院である。信者と思われる老人(大半がおばあさん)が境内や寺院のなかを熱心にお掃除していた。境内は日本の公立小学校の運動場くらいの広さがあるが、樹木がほとんどない。南京は沿道の街路樹の緑がとても美しい街であるので、これはなにか物足りない。抗日戦争が終わったあとの1946年春、蒋介石は重慶から南京に遷都した。このとき、蒋介石ら国民党の要人と周恩来が代表をつとめる中共代表団とはしばらくの間、南京で和平交渉をした。後者の「梅園新村紀念館」は、このときに周恩来たちが住んだ場所である。和平交渉は決裂して、周恩来たちは中共の根拠地延安に引き上げ、その後本格的に国共内戦が展開された。ここには、周恩来関係の資料を収集する全国で唯一の周恩来図書館があるが、通常は開放していない。周夫妻の活動した公館はスパイののぞき見を防ぐために周囲よりも高く塀を囲っていた。公用車には、米国製の黒塗り高級乗用車ドッヂを使っていたとのことで現物が展示されていたが、乗用車のほとんどなかった時代だからずいぶん目立っただろうなと思った。蒋介石は、勝算があって交渉相手の周恩来たちを追い返したのだが、周恩来は3年後に南京への帰還を果たしたのである。

  楊州観光は南京大学の大型乗用車を1台手配していただいて、出掛けた。朝7時に南京を出発し、約1時間半かかった。清朝の康煕・乾隆時代に完成された庭園、「痩西湖」を見学した。湖水のまわりに寺院や白塔や望楼があり、24か所の橋が懸かっている。春の花が至る所に咲き乱れている。「痩西湖」の後は昼食をとって、名刹大明寺を訪れた。西暦753年に来日した唐の高僧、鑑真和上が律を講じていた寺院である。5回渡来を試みて、最後に成功したときには盲目になっていた。奈良の唐招提寺は学生時代に訪れたことがあるが、この歳になってやっと‘本家’を訪れることが叶った。大明寺の奥の殿には唐招提寺を模倣した日本式寺院があり、日本では国宝になっている鑑真和上像の複製が真ん中に置かれている。日本からも多くの仏教関係者が訪れており、日中文化交流の原点ともいうべき場所である。深い樹木に囲まれた静かな場所である。

  楊州の帰路、鎮江を通過した。ここは彼の江澤民前国家主席の郷里だという。もっとも同市はそれをあまり売り物にはしていない。ちなみに、江氏は日本の傀儡政権、王精衛政権時代の国立中央大学(南京大学の前身)に在学したという。戦争の時代に抗日意識に燃えた中央大学の教職員や学生たちは重慶に移っていった。傀儡政権時代に青春を送ったという学歴は、かつては晴れがましいものとは言えなかったので、江氏はこのことを明らかにはしたくなかった、という。私も、学生時代は戦後の上海で工学を学んだとばかり思っていた。人にはいろいろな歴史があるものだ。

  南京から重慶にもどって感じることは、二つの都市の共通点よりも相違点である。南京は道路が広く街路樹が豊かで、公園が多い。市内は平坦で、郊外には豊かな田園地帯が広がっている。市の中心部には、中華民国時代の2、3階建ての瀟洒な洋館が残されている。市政府は取り壊しを禁じており、住民たちはおそらく不便と誇りとを感じながらそこに暮らしているのだろう。今でも西欧文化の名残が残っている街だ。外国人の多い今日ではコーヒー店を至る所で見かけるが、民国時代にもきっとたくさんあっただろう。日本軍占領直後の大虐殺事件(1937年11月)は永遠に消すことのできない記憶であるが、当時にあっては上海についで垢抜けた都会だった南京を破壊して死の街に化したことは、取り返しのつかない歴史的犯罪である。

  重慶は坂道と急カーブとトンネルと橋の多い街である。道路は狭く、鋪道も狭くて、商店街はごちゃごちゃしてまことに騒々しい。今でもコーヒー店よりも茶館の多い街である。南京のやや甘口の料理になれた江蘇や浙江の人びとは、脂っこくて山椒や唐辛子のいっぱい入った四川料理には閉口しただろう。蒋介石も宋子文もきっと南京から連れていったシェフに料理を作らせていただろう。日本人である私も二つの都市の違いを感じるが、私にとっては両都市とも「中国」で一括りにすることができる。しかし、抗戦の「陪都」に移住した人びとにとっては、両都市の違いは天と地との差であったのではないか。重慶の土地っ子の悲哀をよそに、さっさと帰還して喜びの祝典を挙行した人びとの心情が、私にも少しは理解できる。今回の南京旅行はそんなことを実感した旅であった。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:47 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第9信(2008年5月17日・ 内田 知行) 

  四川省西北部を震源地とする大地震の報道について紹介する。5月16日午後の政府発表によれば、四川省の死者は2万1577人、同省の負傷者は15万9006人となり、まだ1万4000人以上が生き埋めになっている。他省の死者は、甘粛364人、陝西109人、重慶15人、河南2人、雲南1人、湖北1人であった。全体で死者は2万2069人、負傷者は16万8669人に達した(『南京晨報』2008年5月17日)。地震の直後、日本の友人たちから安否を気遣う国際電話を何通もいただいた。茜もいただいたが、その中にはここのところ数年連絡のなかった東京在住の中国人の友人からの電話もあった。とてもありがたいことである。私はいま南京にいるのだが、地震の翌日の夜、上海に長期滞在する古くからの友人O氏からの電話をいただいた。久しぶりの旧友の声がとてもうれしかった。もっとも、四川省成都市で仕事をしている韓国の友人、Gさんによれば、成都では相当激しいゆれがあり、余震も翌日まで続いたという。教員をしている彼は、1階の教員事務室で夜を明かし、学生たちは学校の校庭で野宿をしたという。

  連日、新聞やテレビで地震報道に接しているが、未曾有の大被害に心が痛む。とくに、小中学校の校舎が瓦解して授業中に多くの児童が亡くなったようである。2000年の歴史を持つ水利施設で知られる都江堰市で聚源鎮聚源中学の校舎が倒壊して18クラスの生徒が生き埋めになり、翌日の報道では50人以上がなくなった(『南京日報』5月13日)。重慶市梁平県文化鎮の小学校校舎と同県礼譲鎮の中心小学校校舎が倒壊して、前者では5人死亡、100人以上が負傷し、後者では19人が重軽傷となった(同上紙)。ほかでも小中学校の校舎が倒壊して子供たちが犠牲になったという。じつは、この報道に接して「地震大国」の国民である私には少し違和感がある。その違和感は、地震の直後に学校に子供を置いておくのは危ないと解釈した陽一の同級生の父兄たちが、担任の先生にも連絡しないでさっさとつれて帰ってしまった判断にたいする違和感にも通じる。学校の寄宿舎よりも我が家のほうが安全と判断した母親の茜の行為にいささか?を送った真情にも通じる。これが日本だったら、まず自宅よりも学校のほうが安全と判断して、地域の被災者たちはみんな小中学校の体育館などに集合するのだ。平屋や2階建ての住居よりも耐震設計の学校の校舎のほうが安全だと私たちは考えている。しかし、どうも中国の父兄たちはそうは考えてはいないようである。今回の被災地の映像をテレビでみて気づくことは、倒壊して瓦礫と化した建物の隣に、亀裂ができてもしっかりと建っている建物があることだ。いまはまだ救援活動で手一杯で、地震被害の分析のような報道は少ない。と思っていたら、『南京晨報』5月17日のA4面に「なぜ校舎の倒壊が多いのか」という対震工事設計の専門家の解釈の記事と、「教育部」(日本の文部科学省にあたる)の発言を見出しにした「倒壊した校舎のなかから『おから』を見つけたら容赦しない」という記事を見つけた。「おから」は豆腐のおからから転じて手抜き工事の証拠という意味である。専門家は校舎倒壊の理由を3点挙げている。第1点は建物が一定の建築基準に達していないこと、第2点は地震そのものが予測された強度を超えてしまったこと、第3点が手抜き工事である。もう一つの記事のなかで、教育部の役人は当初から校舎倒壊の多いことに注目している、と発言している。私も連日の新聞報道を読みながら、いずれ手抜き工事というか、日本で暴露されたような建築法規を無視したずさん設計、ずさん工事が問題になるのではないか、と推測している。どうせ昼間半日子供たちがすごすだけだから、作りがいいかげんでもしょうがない、という発想が建物を造る人びとにあるのではないか。次代の担い手をこそたいせつに育てなければならないはずなのに、と思うのだが。

  さて、14日から自分の研究のための史料集めの目的で「档案館」訪問を始めた。一般の外国人にはあまり馴染みがないかもしれないが、档案館は日本で言う政府公文書等の歴史史料を収蔵する文書館である。国家級の文書館は中国に二つあり、一つは北京の第1歴史档案館、もう一つは南京の第2歴史档案館である。前者は中国最後の王朝である清朝の末期までの歴史史料を収蔵し、後者は中華民国時代を中心に共和国建国以降の史料も収蔵している。後者が南京にあるのは、中華民国時代の首都だったという歴史的由来によっている。日本には、明治以降の中央政府の文書史料を収蔵する機関として、千代田区竹橋に国立公文書館がある。私は中華民国時代の中国の歴史を勉強しているので、第2歴史档案館の歴史史料に関心がある。この档案館の利用というのが、日本と中国とではずいぶんと事情が異なる。日中文化の比較という意味でこれを紹介する。東京の国立公文書館には、だれでもふらりと行って史料をみることができる。身分証明書もパスポートも不要である。もちろん日本人でも外国人でもだれでも歓迎してくれる。いちおう閲覧希望の書式に住所や名前を書くが、偽名でも追及されたりはしない。ところが、第2歴史档案館の閲覧にあたっては、紹介状というものが必須である。しかも中国国内の大学や研究機関の発行する紹介状が必要だ。今回は南京大学のC先生がこれを作成してくれた。個人的なつながりで南京に滞在しているが、档案館に出した紹介状では南京大学の「訪問学者」となっている。档案館の毎日の閲覧記録には「南京大学」と記入するだけで、個人名は記入しなくてもよい。というか、みんな記入しない。個人が閲覧に来るのでなくて、機関が来るというわけである。

  档案館は11時半から12時半まで昼食時間で閉館する。14日の午後1時過ぎに館内のカウンターに着いた。おばさん職員に紹介状とパスポートを提出する。パスポートはすぐにコピーをとって返してくれた。閲覧申請書に姓名・所属を記入し、中華民国政府のいつの時代のどういう機関にかんする歴史史料をみたいのかを書く。これでOKかと思ったら、まだ閲覧の申請を決裁する職員が戻っていないから待ってくれ、という。それじゃあ史料目録を見たいがいいか、と尋ねると、それは決裁が済んでいないからダメという。たかが史料目録である。30分ちかく経って、中年の「決裁先生」が帰ってきた。紹介状や閲覧申請書などを一通りみてOKという。ほっとしたが、その回答に続いて「明日の朝8時過ぎに来い」という。つまり、今日は史料目録も見せてくれないのだ。午後4時半の閉館まではまだ3時間近くある。予備調査もままならず、すごすごと宿舎にもどる。

  でも、当日午前中に行った、南京大学のすぐ近くの江蘇省档案館では持参した紹介状では不可だ、と言われた。2館とも宛先が異なるだけで、中身は同じだ。「あなたは外国人だから、南京大学の外事処が発行する紹介状じゃないとダメだ」という。もっとも、所蔵目録のほうは自由にみせてくれた。もっとも見せてくれたのは、中華民国時代の江蘇省の地方政府関係の所蔵目録で、中国共産党運動関係の歴史史料を意味する「革命歴史档案史料目録」は見せてあげない、という。というわけで、同じ公文書館なのに閲覧者にたいする対応はずいぶんと異なる。でも、第2歴史档案館は門を開けて所蔵史料をみせてくれるだけましだ。4、5年前に内モンゴル自治区の区都フホホトにある内モンゴル档案館に閲覧を問い合わせたことがある。しかし、玄関はおろか門に入るのも謝絶された。もちろん理由など教えてくれなかった。

  15日は早朝から第2歴史档案館に行った。閲覧室で、見てビックリ、聞いてビックリの張り紙に気がついた。閲覧者にたいする史料のコピーサービスのお知らせであるが、私はすごいカルチャーショックを感じた。今年の4月1日から実施されている方針だ。従来徴収していた史料1ファイルにつき2元の「調巻費」(つまり閲覧料)をやめる。档案館では、史料が機関別テーマ別に適当な分量にファイルして保管している。これまではたくさん閲覧すると閲覧料はばかにならなかった。いまは、閲覧して手書きで筆写したり、ノートパソコンで見ながら入力したりするのはただになった。時間が豊富にある地元の研究者には朗報である。しかし、滞在時間が限られている外国人研究者などは、これまで大量にコピーして持ち帰っていた。そのコピーサービスについての新規定が従来とはだいぶ変わった。

  新規定によれば、A5サイズで史料を50頁までコピーしたら、1頁につき2元を徴収する。51~100頁ならば、1頁につき10元徴収する。101頁以上ならば、1頁につき20元徴収する。大学の近くでは、A4版1枚が0.2元だから日本の10円コピーを基準にすると、2元は100円に等しい。新規定によれば、50枚のコピー代は100元、51枚のコピー代は510元になる。100枚のコピー代は1000元、101枚のコピー代は2020元になる。普段資本主義の社会で生活している私には、この新規定をささえる基本思想、基本理論がどういうものなのか、さっぱり理解できない。むかし習った経済学の教科書に、市場では商品の有効需要は逓減するという法則(?)があった。かつての中国が唾棄していたブルジョア経済学である。これはひらたくいうと、1個100円の商品は、2個買えば1個の値段が95円になり、3個買えば1個あたり90円になるという考え方である。スーパーマーケットが個人商店よりも品物を安く売れるのは、大量仕入れをするからである。だから、新規定は私たちの日ごろの考え方と逆行している。しかし、毎日コピーを取らされている档案館の職員の身になったらどうであろうか。1件当りの分量が30枚だったらいやな仕事でもすぐに終わるからまあ良い。80枚に増えたら仕事にたいする不愉快感が増す。これが130枚になったら、不愉快度はさらに高まるから、2、3頁は跳ばしてやれと思う。枚数が増えれば増えるほど、不愉快感は逓増するのである。どうせ、こんな仕事はたくさんやってもそうでなくても、給料に違いはないんだから。

  もう一つの考え方は、コピーとして提供される材料が唯一無二の財であることだ。ほかでは入手不可能な歴史史料で、この档案館だけが所蔵する。完全独占なのである。だから、価格は生産者が自由に決められる。利用者から顰蹙を買ったって、かまやあしない。コピーを入手する側としては、30枚よりも80枚、80枚よりも130枚のほうが史料にたいする期待値、というか有難みが逓増する。だから、たくさん取って単価があがっても、まあいいか、と思う(もちろん、私は思わないが)。たぶんこれが、社会主義の市場経済というものの特色、つまり「中国的特色の資本主義」というやつなんだろう。以前中東のイスラーム社会で暮らしたことのあるジャーナリストの本を読んだことがある。その中に、イスラームの市場経済の特色を説明する事例があった。それは、ある品物を一つかったら100円のところが、二つ買ったら220円、三つ買ったら360円と、値段が逓増するという話だった。つまり、有効需要が逓増するのである。それは、一つしか買えない人と比べて、二つ三つと余分に買える人は懐が豊かなのだから、人よりも余分に払うのが公平な取引なのだ、という解釈だった。でも中国の経済がこの調子で発展すれば、日本人よりも懐の豊かな人がどんどん出現するはずなのに、慌ただしく作業をして帰っていく日本の貧乏な閲覧者から法外なコピー代を取るのが公平なのか、という疑問は残る。もっとも、これは内外格差の政策というわけではないからWTO(世界貿易機関)で問題になるという性格のものではない。

  以上、コピー料金という角度からカルチャーの違いを考えてみた。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:45 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第8信(2008年5月12日・ 内田 知行)

  中国に来てから毎日地元の新聞を読んでいる。時々おもしろい記事を見つけると切り抜いておく。重慶では毎日『重慶晨報』を取っている。南京では、当地の地方紙『南京晨報』『金陵晩報』や上海の『新民晩報』を読んでいる。新聞の紙面を見ながら、どうも腑に落ちないことがある。現在、中国の胡錦濤国家主席が国賓として日本を訪問中である。日ごろの家庭生活の中でこういう国事を話題にすることはないのだが、『重慶晨報』には胡国家主席の日本訪問の記事はほとんどなかった。スキャンダラスな社会ネタやスポーツ記事、芸能ゴシップ満載の地方紙なのである。南京で接する新聞ではどうか。5月10日付けの『南京晨報』では、1面の見出しにないだけでなく、胡主席の活動を紹介する記事さえもない。大阪に行っている中国の男子陸上ハードルの選手の活躍を胡主席に見に来てほしいという、当の男子選手を取材したニュースの中に胡主席が書き込まれているにすぎない。国際面では、ブッシュ大統領令嬢の結婚のニュースが写真つきで報じられているのに、である。5月11日付けの『南京晨報』では、1面の見出しにないだけでなく、その他のどこの紙面を探しても1字の言及もない。5月12日付けの『南京晨報』も同様である。5月10付けの『金陵晩報』も同様で、1面の見出しにも、その他の紙面にも1字の言及もない。1面のビッグニュースは、オリンピックの聖火リレーで、たいまつにさわった南京の盲学生の喜びを大きなカラー写真つきで報道したものである。5月12日付けの『金陵晩報』にも胡主席関連の報道は、1行はおろか1字もない。国際面の短信欄に「モンゴルの6省市に最近手足口病が流行している」というニュースは載っても、である。同紙の1面は、脳出血で突然亡くなった29歳の女性の大学院生が、亡くなる直前出産したというニュースをカラー写真つきで載せている。前日の「母の日」にちなんで、「偉大な母の愛」を讃えていた。中国の新聞の社会ネタに関心をもっている私には、これらの報道満載の新聞は興味深いのだが、でもどうもジャーナリズムの精神が不足しているように思えるのだ。大衆に迎合する志の低い報道が多いように感じる。購入した新聞のなかで胡主席の日本訪問を報道していたのは、5月10日付けの上海『新民晩報』であった。ちいさいけれども1面見出しに、「中日合作要有美好前景」(中国と日本の協力には麗しい将来があるだろう)という、天皇と会ったときの胡主席の発言を掲げていた。また、国際面には横浜の山手中華学校訪問のニュースと今回の日本訪問をめぐる清華大学の国際問題研究者の論評を紹介していた。劉江永という先生の文章で、小泉首相時代にすっかり冷却してしまった日中関係が、安倍首相による2006年10月の訪中=「破冰(氷)の旅」、温家宝首相による2007年4月の訪日=「融冰(氷)の旅」で変わり始め、福田首相による2007年12月の訪中=「迎春の旅」で好転し、今回の胡国家主席による訪日は「暖春の旅」となったという。外交関係の変化と訪問の季節とを重ね合わせた粋な表現である。劉先生は、両国の暖春は「高層の人びと(政治や社会の指導者)のあいだでだけではなくて、民心の中、基層(草の根の人びと)、青少年の中においても形成されなければならない」という。その通りである。中国の中にも日本の中にも「日本人は嫌い」「中国人は嫌い」という内向きの思考の人びとが少なくないのが、今の現実である。この文章は、そうした両国の国民にたいして、ジャーナリズムの見識を示すような記事である。

  11日の朝は5時40分ごろ賓館をでた。C先生に誘われて、南京の古本市に行った
。南京博物館前の大通りに沿って広い舗道がある。そこに早朝5時から2時間くらい、毎週土日に開かれている。300メートルくらいの長さで、路面に思い思いに古本を並べている。書籍が大半だが、書画や骨董もある。C先生によると、以前は政府機関あたりから
流出したと思われる公文書(中国語で「档案」という)があったが、最近はめきっり減ったという。こうした古本市を中華民国時代は「鬼市」と呼んだ。盗品の売買もさかんで、売り物の出所を尋ねるのはタブーだった。お天道様の下で交易できない物が多かったので、早朝開いて日の出とともに閉じられた。しょっちゅう掘り出し物を探しに行くC先生は
馴染み客らしくて、あちこちの「老板」(店主)と挨拶している。私も若干欲しい古本を見つけたので、C先生に値段を尋ねてもらった。こういう場所で交渉をするのは、少し中
国語ができてもお手上げである。土地の発音で問答しないと、相場の3,4倍はふっかけられてしまう。私は交通経済関係の資料を数点買った。交通部公路運輸局編『全国公路営運路線里程示意図』(1970年)が10元、中国科学院編『新疆維吾爾自治区経済地理』(1963年)が5元、建国初期の天津の港を紹介したパンフレット『塘沽新港』(1954年)が5元であった。今の時代だったらなんということもない内容の文献なのだが、その時代の中国が置かれた厳しい政治環境、国際環境を反映した図書である。前2者の表紙には「内部資料・注意保存」と印刷されている。あの時代に外国人とのあいだでこんな図書をやり取りしてそれが発覚したら、どんな災難が降りかかってくるか分からなかったであろう。つくづく平和な時代を実感する。さて、南京図書館の前から5分くらいあるくと、「桑巷」という細い通りに入る。ここは平日の朝から夕方まで舗道で骨董市を開いており、通りに面してところどころに古本屋がある。神保町の古書店のような店を想像してはいけない。ブックオーフのような新古本の店でもない。どう考えても、紙くずといっしょに回収してきたような本が少なくない。しかし古書の値段はさきほどの博物館通りの前の朝市の古本よりもだいぶ高い。朝市で買ってきて自分の店で売るという「老板」が少なくないという。ここに並ぶ1軒で『華中抗日根拠地財政経済史料選編』(4巻)と『張家口地区公路運輸史』を計160元で買った。たしかに先ほどの朝市よりもだいぶ高い。前者は180元、後者は25元の値段がついていた。一応45元の値切りに成功したことになる。後者をもう少し早く入手していたら、まえに発表した論文のなかに使えただろう。もっとも、いまも興味をもっている中国の人力車史に役に立つ記述が3頁ほどある。あちこち古本を漁って、午前10時まえに賓館に帰った。

  12日の午前中はC先生のお宅を訪問した。C先生は中日関係史の専門だが、十数年来共和国建国以来の政治史、とりわけ文革にかんする史料を精力的に収集している。南京だけではなくて、上海、北京、天津などの古本市を精力的に駆け回っている。週末に列車に乗って行き、週明けにまた長距離列車で帰ってくる。活字の文献だけではなく(活字の文献よりも)政府機関などから流出した原史料を精力的に収集してきた。自宅はまさに文革史料館であった。おしむらくは、ほとんど整理されていない。整理や分類に気の遠くなるようなエネルギーが必要だろうと、史料の山を拝見して思った。「愛書人」という言葉があるが、彼は「愛史料人」である。大学教員生活がまだあと25年くらいはあるので、ゆっくりやるという。最近の中国の大学教員には、住宅(フラット)をいくつも購入して本業よりも家賃で稼いでいる人も少なくない。C先生は70平米あまりのフラットに夫人と
小2の娘さんの3人で住んでいる。史料に金を注がなかったら、今頃はもう1軒ぐらいフラットが買えたかもしれないという。夫人も最近では意見を言わなくなったという。私はこういう「史料の虫」が好きである。

  C先生のところで昼食をご馳走になってから、腹ごなしに歩いて帰ってきた。途中で
、「先鋒書店」という新刊書店をのぞいた。防空壕のようなちいさな入り口から入ると、中は広大なウナギの寝床のようなスペースで、きちんとした分類をしてゆったりとしたスペースを取って新刊書が配列されている。あちこちに長いすやソファや事務用の椅子とデスクが置かれている。客は好きな本を棚から取って椅子に座って何時間でも読むことができる。おまけに、トイレも大きくて衛生的である。20人以上の客があちこちに座ってただ読みをしている。「店主のお薦め」という本のコーナーもあり、おおむね哲学や文学の良書が並べられている。文学や社会科学の翻訳書も少なくない。全体に選書はハイブロウ向きである。だから、子供や中高生や町の普通のお年寄りが来ないのだろう。はたしてこれで儲かっているのかどうか分からないが、店の設計といい、選書方針といい、来客サ-ビスの方針といい、まさに「先鋒」である。気に入って2時間くらい立ち読み、座り読みをした。もっとも、なにも買わなかったけれど。

  じつは2時間ほど「先鋒書店」で暇つぶしをしていたとき、中国では大変な事件が起こっていた。それが、まったく気がつかなかったのは、今思えば「先鋒書店」がほんとうに戦時中の堅固な防空壕だったからかもしれない。午後2時半頃、四川省の省都・成都の西方150キロの地方都市で大地震が発生した。震源地の震度は7.8度だった。7000以上の人が亡くなったという(5月13日付『南京日報』)。重慶では実害はなかったが、かなりの揺れを感じたという。夜8時過ぎに電話をしたが、これから中学校に陽一を迎えに行くという。夜の余震を恐れて、クラスの父兄の3分の2は子供を家に連れて帰ってしまったという。茜によれば、陽一の部屋は寄宿舎の6階で万一倒壊したらだれも助けてくれない、という。そんなこと言ったって、うちだって12階建ての6階じゃないか、とまぜっかえすと、家族と一緒のほうがいい、という。まあ、その通りだ。でも、平地に建っている寄宿舎が倒壊するくらいならば、うちだって危ないし、第一長江や嘉陵江に架かっている道路橋は崩落しているだろう。日本軍の空爆に耐えた昔の防空壕のほうがいまの構築物よりも強固かもしれない、と思うのである。12日の夜から、温家宝首相は被災地で救災活動の陣頭指揮をとっている。救災活動の順調を祈るばかりである。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:44 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第7信(2008年5月10日・ 内田 知行)  

  8日の午後6時ごろ、南京の空港についた。重慶からは1時間40分の飛行機の旅である。25日の夕方まで南京に滞在する予定である。南京大学歴史学部のC先生が小学2年生の一人娘をつれて空港に迎えに出てくれた。空港から市内まで平坦で車幅の広い道を40分くらい車で走って南京大学のキャンパスに着いた。南京大学海外教育服務中心が経営する宿舎、「状元楼・西苑賓館」という20階建ての建物である。欧米やアジアからの留学生がたくさん宿泊しているという。チェックイン時にもかれらが出入りするのを見かけた。内陸の都市から急に国際都市に入ったような感じがした。

  今回は、南京大学のC先生とZ先生の招待でこの宿舎にお世話になる。Z先生は近年出世して「学長助理」の地位にあり、多忙を極めているので、迎えには来られないとのことである。南京大学には、副学長が3人、学長直属の「助理」が4、5人ほどいる。私の勤務する大学にも、3人の副学長のほかに、学長に学長補佐として、4、5人の若手教員が貼りつけられている。中国では、学長や副学長は中央の教育部の任命により、任期は定められていない。したがって学長助理にも任期はない。「助理」は補佐、助手の意であるが、その権限は相当なものである。歴史学部には学部長(系主任という)がおり、大学院の長として院長がいる。しかし、年少の「学長助理」の権限は、50代60代の系主任や院長よりも大きいのだという。

  南京大学は、文科系から理工系までをそろえた総合大学で、友人たちの話では、大学のブランド力では清華大学、北京大学、復旦大学、浙江大学などにつぐという。民国時代の首都南京の国立中央大学が前身で、そういう前身が災いしてか1980年代までのブランドはいまよりずっと低かった。90年代以降評価が急上昇した。歴史学部はいわゆる入学時の偏差値でいくと学内で一番低いが、全国的には名の知られた老舗の学部である。学部は毎年30人しか取らない。そのうちの3分の1くらいは、推薦状だけで北京大学や清華大学などのより偏差値の高い大学の大学院に進学するという。大学院の修士課程は40人以上取るという。博士はそれよりもずっと少ないが、でも大学院生の数は学部学生よりも多い。典型的な研究者養成型の大学である。もっとも、学部学生のあいだでは、「金銀銅」という、大学院生が聴いたら腹を立てるような物言いがあるという。上に行くほど入試が易しくなるための人材評価である。日本でも、国立や私立の有名大学は近年大学院の受け入れ人数を急激に増やしたから、同じような物言いがあるようだ。

  この「西苑賓館」のある市内のメインキャンパスのほかに、長江北岸の浦口地区に1~3年生のためのキャンパスがある。1~3年生の学生は、すべてそのキャンパスのなかの宿舎に住んでいるが、教員は市内から通っている。メインキャンパスとそのキャンパスのあいだを教職員のために毎日3、4便のバスが往来している。金曜日(9日)の午後、C先生に連れられて浦口キャンパスを見学した。広大な平地に雑木林や池がある。周辺には工業技術開発区で、多くの外資系企業の工場がある。授業の前にある場所に行っていかにも中国らしい標語をみつけた。「向前一小歩、文明一大歩」という対句になっている。「少しだけ前に進むと、文明(つまり礼儀作法)の大きな進歩になる」というほどの意味である。もうお分かりだろうが、この標語は息子に立小便で汚されることがあるうちのトイレにも掲げたい表現である。「文明」という中国語は日本語とは、使い方がずいぶん異なる。日本語ではもっぱら、「中国文明」「インド文明」の「文明」である。中国語では、人前で屁を放ったら「文明一点」とたしなめられる。

 C先生は、浦口のキャンパスで他学部の学生のために開講するいわゆる一般教養の歴史学の授業を金曜日に4時間担当している。1時間は45分である。科目は「日中関係史」で、9日は最初の2時間(つまり計90分)は「日本軍の中国占領と慰安婦問題」、後半の2時間は教室を変えて「日本の対中国侵略の展開と占領地におけるアヘン政策」である。いずれの講義も、中国や日本における研究史、基本史料の紹介をパソコンでパワーポイントを使いながらおこなう。慰安婦問題では、1995年以降の日本における慰安婦裁判の展開と日本の民間における支援活動や最近の靖国神社の政治家参拝などについても、紹介する。防衛庁の歴史史料などを提示して解説しながらの客観的でありながら、しかも必然的に熱のこもった講義になっている。日本政府が今もって「認罪」せず、したがって政府としての賠償金を被害者に支払っていないのは事実である。ただ、もっと細かく言えば、地裁や高裁段階では裁判所は「被害事実を認定」しながら、「今の政府には責任はない」という責任回避の論法を採っている。支援団体はそこの論理の齟齬を衝いて訴訟を展開してきた。初めから裁判所が政府に罪はない、と結論してしまったら、法律にもとづく裁判闘争は困難である。中国流にいえば、日本政府は「認罪」していないのであるが、私の見方では「認罪はしてもその内容が大いに問題」なのだ。講義では右翼による反慰安婦宣伝活動も紹介していたが、こうした右翼の活動は、多くの日本人が共鳴するものではない。どちらかといえば、少数派の悪あがきである。だから、C先生の講義の趣旨に基本的に賛同するのだが、日本人としては若干の違和感がある。後半の「アヘン史」の授業もなかなか面白くて、台湾のアヘン政策から満州国、華北占領区、さらには汪兆銘政権のアヘン政策と展開する。2科目とも受講者は100人をこえ、しかし、歴史学専攻の学生はほとんどいない、という。なかには、数学や物理学など理工系の学生もいるという。それにしては、皆さん静かに聴いている。教室の後ろのほうには、新聞を広げて暇つぶしをしたり、英語の教材をよんだり、携帯メールをしたりという学生がいる。講義用のレジュメは配布しないが、授業の出欠も取らない。学年末に単位を取らせるための簡単なテストを教室でやるだけという。それにしては、履修者のうちのかなりの比率の学生がおとなしく出席して聴いている。たしかに、C先生は面白い歴史学のネタを準備して授業をしているが、私が自分の学校で同じやり方をしたらどうだろうか。100人の受講者は、3、4回後には3分の1以下になっていそうである。授業の形態とはべつに私見を述べると、慰安婦問題もアヘン問題も「日中関係史」のなかには納まりけれないテーマである。私がやったら、19世紀後半以降の日本の「からゆきさん」(海外渡航売春婦)から説き起こして、韓国やフィリピンやインドネシアなどの慰安婦問題にも話を広げることになるだろう。アヘン問題も、朝鮮半島のアヘン問題や、東南アジアの大東亜共栄圏のアヘンや戦時下イランからのアヘン輸入や、当時は合法であった覚せい剤の生産や流布について広げることになるだろう。ふたつの授業の聴講からいろいろなことを教えられた。それにしても、中国の学生が日本近代史の「負の部分」をきちんと学んでいるのに、日本の学生の多くがそれを学んでいないのは、文化的なコミュニケーションギャップをますます広げることになりはしないか、と恐れる。日本の歴史学の教師として責任の大きさを自覚させられたひと時であった。

  ちなみに、これは数日前に重慶で聞かされた話であるが、昨年日本のある県の高校生が日中交流のために重慶を訪問して高校生たちと交流したという。そのさいに日本側は中国側にたいして、戦争中の重慶爆撃の歴史史料などは見せないようにと要請したという。地域の教育委員会あたりが引率教員に指示を与えたのではないか、と関係者は私にもらした。ところが、重慶の中学生や高校生はみんな歴史の授業で4年以上続いた日本軍による重慶空襲で数千人の死者が出た歴史を学んでいるのだ。日本人の学生たちが重慶の三峡博物館を見学しながら重慶爆撃の展示セクションを素通りしてしまったらせっかくの相互交流が相互不交流になってしまうということを日本側の「教育」関係者はなぜわからないのか、と思う。

  重慶には私たちの家があり、茜の故郷だから私は重慶に愛着をもっている。重慶の友人たちは、「重慶は好きか」とよく質問するから、もちろん躊躇なく「好きだ」と答えている。今回は、抗戦時代の重慶や四川省の地方史についてなん篇か論文を書くために1年間中国にいる。重慶から南京に来て思うのは、その遠さである。距離の感覚は中華民国時代、とりわけ交通網が戦争によって分断された抗戦時代には今よりもはるかに大きかっただろう。日本軍による大規模な虐殺事件で有名な南京は1927年から37年までと、46年から人民共和国の建国までの時期、中国国民政府の首都であった。抗戦の数年間は、重慶が「陪都」、平たく言えば戦時首都だった。南京や上海、北京から多くの政府要人や企業家・商人・文化人、そして庶民たちが重慶に避難して行った。そして、対日戦争に勝利すると、多くの人びとが意気揚々と南京や多くの沿海部の大都市に帰っていった。1945年の秋から46年の夏ごろまでのことである。そして、四川人だけの町になった重慶からは、政治家や高級軍人も、企業も、大学も立ち去っていった。レストランも、劇場や映画館も、酒場もさびれてしまった。街路を走る乗用車やバスやトラックも急激に減ってしまった。1946年5月、重慶の人びとはさびしく取り残されてしまったにもかかわらず、南京への政府の帰還(中国語で「還都」と言った)祝典に立ち会わされた。戦時の数年間重慶での生活を余儀なくされた人びとと、土着の重慶・四川の人びととは、言語も生活にたいする思考も食文化もずいぶん違う。きっと上海や南京にいた人びとは重慶に行っても重慶語(四川語)を話そうとはしなかっただろう。ぴり辛の「重慶火鍋」はきっと好きにはなれなかっただろうと思う。戦勝によって元の首都南京に帰るというのは、自然な選択だったと思う。すくなくとも、戦火の中で故郷との別離を余儀なくされた人びとにとっては。

  しかしいま、私は「戦勝後も国民政府が引き続き重慶を首都にしていたら中国はどうなっただろうか」と想像する。歴史学に「もしも」というのは、学問的な態度ではないが、そういる仮定をしたい、と思う。国民政府は引き続き内陸の経済開発や文化や教育の振興に尽力したかもしれない。沿海部の富を内陸に再配分する努力をもっと必死にやったかもしれない。自分たちが住み続ける場所だから、居心地を良くする努力をもっと積極的にしたかもしれない。国民政府が存続したか共産党政府が遅かれ早かれ出現したかの仮定の議論は措くとして、地域間格差を是正する実践を政府はもっと早くやっていたかもしれない。出稼ぎ農民が多くて貧しい四川省は、貧困地区の代表のような場所だから、中国のテレビのホームドラマで住み込みのお手伝いさんが出てくると「四川語」なまりを話すことがある。しかし、こういう金持ちが田舎者を見下すような場面は、あるいはないかもしれない。重慶語の流暢な息子に冗談で言うのだが、「普通語」(標準語)のなかにたくさん四川語表現があったかもしれない、なんといっても「首都の言葉」なんだから。戦勝は中国人には慶事であったのは、間違いのないことだが、重慶や四川や雲南の人びとにとっては資材や資本の流出、人口の減少、人材の流出、文化の流失だった。慶事の中に喪失感があった。今度書くつもりの原稿では、そういう人びとの思いも表現できるような文章を書きたいものだと思う。坂道と橋とトンネルの町重慶と、町の中の緑が豊かな南京との風景の落差を目の当たりにしながら、そういうことを考える。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:43 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第6信(2008年5月5日・ 内田 知行) 

  4月29日の昼間、茜と渝中区に最近できたショッピング・モールである「洪崖洞民俗風貌区」にでかけた。坂の町、重慶の地形を生かした商業地区である。嘉陵江に面した崖を穿って造った商業施設が1階から8階まであり、9階はホテルの入り口になっている。1階と9階が道路に面しており、外部からの出入り口になっている。2階が「洋貨街」、3階が中国の民芸品や骨董品のお店、4-8階が食品や軽食のお店、レストラン街になっている。4階で「羊肉米粉」という羊の肉と香菜の入ったうどんを食べ、川魚のからあげなどをつまんだ。搗きたてのお餅ときな粉を買った。ウインドーショッピングをしてびっくりしたのは、この4月20日にフロアの店が一斉に開店したという「洋貨街」である。大小のスペースに区切られておそらく80店舗以上が入っていた。それがほとんどすべて世界の有名ブランドのコピー商品の小売店なのである。時計ならローレックスの男性用が450元(約7000円)、女性用が430元(6600円)、ルイ・ヴィトンの各種バックが100元(1500円余)、プラダがそれよりちょっと高め、内側が本皮のグッチが300元(4600円)、アルマーニの上着が300元といったところである。腕時計は、ローレックスのほかに、オメガ、ロンジン、ブルガリ、シャネル、ヴィトンなど。残念ながら、わがセイコーやシチズンのコピーはない。万年筆はもちろんモンブランのコピーが置いてある。時計も万年筆も立派なケース入りである。私自身は今から18年ほど前に台北でローレックスのコピーを日本円3000円ほどで買ったことがある。その時の店員の口上は、「ムーブメントはシチズンだから正確だよ」というものであった。電池が切れるまでの2年弱のあいだ正確に動いていた。いまの中国のコピー時計の質はわからない。時計店に贋物の電池交換を頼むのは気が引けて、今では私のローレックスは机の引き出しの奥で眠り続けている。

  このショッピング・モールは、重慶の「合富輝煌」不動産開発という会社が開発し、10平米から20平米ほどに区分して切り売りしている。1平米当たり2万8000元(約43万円)で売りに出しているそうである。4階にあるうどんなどの軽食店の経営者はちいさな区画でも月額3000元の家賃を所有者に支払っているという。この十数年間、中国の製造業者による外国メーカーにたいする知的所有権の侵犯が国家間の争点になっている。「洋貨街」がコピー商品のデパートだというのは驚きだが、これらの商店が一網打尽に摘発され、閉店に追い込まれたらどういうことになるのだろうか。きっと不動産開発業者もおおきな打撃を受けることになるだろう。明らかに見て見ぬふりをしている政府にも大きな責任がある。

  4月30日の午後、茜につれられて家の近くの盲人のマッサージ院に行った。1時間の全身マッサージが20元、30分の局部マッサージが10元である。店はきわめて開放的で、入り口にドアはあるのだが、開け放たれている。10坪ほどのコンクリートの床に6台の1メートルほどの高さのベッドが並べられている。ベッドとベッドのあいだにはカーテンもない。先客は男性が一人だけで、4、5人いる盲人のマッサージ師はひまそうにしている。ベッドは頭部のところが丸くくり抜かれている。うつ伏せになったときに顔がすっぽりと入るための工夫である。いつもメガネをかけて細かい字を読んでいるので、肩がこっている。でも今回は全身マッサージを試してみた。おばさんの盲人がやってくれたが、なかなか力が強い。前半が肩の部分、後半が脚の筋肉のマッサージである。仕上げに「打火管」をやるか、と聞かれた。なんだかわからないが、茜がやると後で気持ちがよい、という。背中の部分にポンポンとやって、5分間くらいタオルケット背中にかけられた。初めは猛烈に背中が重くて、次第にポカポカとしてきた。直径5センチくらいの半球体のガラスの吸引器を背中のつぼに当てて吸引するのである。あとで家に帰って鏡で背中をみると、赤い球形が背中じゅうに出来ている。皮下の毛細血管の血が吸引によって表皮の近くに集まって充血するという現象である。脚のマッサージですっかり脚のだるさが消えていた。全身の血の巡りもよくなったからだろうか、この日は夜もすぐに眠りについた。いつもは朝までに1,2回トイレに行くのにこの日の夜は朝までぐっすりと眠れた。なかなかの効き目である。5月5日の夜も肩の局部マッサージと「打火菅」をやってもらった。1回目の球はまだ背中に黄色く残っている。そこに新たにいくつも赤い球ができたから、黄色い球は赤い出来立ての球の影みたいにみえる。若いカップル同士の強烈なキスマークも「打火菅」と同じ充血現象でなかなか消えないというが、こちらの赤丸は形も大きさも同じで色気があるとはいえない。キスマークも精神的な効果を当人たちに与えているだろう。しかし、つぼに当てているぶんだけ赤丸のほうが医療上の効果がある、と中年の身を慰めている。

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by zuixihuan | 2008-06-18 23:42 | 重慶日記(完) | Comments(0)
重慶日記 第5信(2008年4月28日・ 内田 知行)


 昨日早朝、長年のつきあいのあるS先生から電話が来た。高齢でこの数年病気がちの実母が前日亡くなった、という。81歳の誕生日を迎える直前だという。その日の晩のうちにご遺体は葬儀場(殯儀館)に安置した。27日朝から弔問客を迎えるという。茜の両親が亡くなったときには、2度の葬儀にS先生にはたいへんお世話になった。当時私は日本におり、いずれも学期の途中でもあり、葬儀には参加できなかった。茜はS先生をはじめ仲のよい友人たちにたいそう励まされたという。私も、昨日の午後、茜たちと葬式に出席してお悔やみを申しあげることにした。そこで、今日は重慶の葬式のことを書く。

 葬儀場は長江を渡った市の南郊の南岸区四公里というところにある公立の「江南殯儀館」である。「四公里」は4キロメートルの意である。長江大橋を越えて山をどんどん上っていったところにある。長江岸から4キロメートルほどの距離だから、この地名が付けられたという。地名は、四公里から九公里まである。なんにもない山道にそって住宅や工場を建てたので、粋な地名を考える手間を省いたのであろう。手抜きの地名だ。もっとも、葬儀場に至る道路は「福寿路」と名付けられている。「長寿を全うして極楽浄土で幸福を得る道」という意味である。なかなか洒落ているが、猛烈に埃っぽい山道である。

 葬式は、日本のそれとはだいぶ形式が異なる。葬式の期間は26日晩から28日午前中の火葬終了までという。葬儀会場は2泊3日借りる(いまの重慶では2泊3日が普通だが、以前はもっと長かったという)。S先生によれば、今回はその料金が3000元になる。これには、弔問客に提供する食事や軽食類の費用は含まれない。葬儀場は火葬場を併設しており、火葬費は3000元に含まれる。
 「江南殯儀館」は規模の大きな葬儀場で、大小の葬儀会場を12前後もっている。最小の会場が3000元、それより大きくなると5000元、最大が8000元になる。今回はいちばん安い会場を選んだとのことである。大学の教室でいうと、50人規模の教室の奥行で、幅はそれよりも若干広い。利用されていない最も料金の高い会場を見学したが、200人規模の教室の前後に50人教室と30人教室とをつなげたような構造である。これが4号室。葬儀場だからかどうかはわからないが、4はタブーではないようである。

 1日目の夜は親族だけが通夜にくる。3日目の午前中の火葬には親族とごく親しい友人だけが立ち合い、終わると会食をして散会するという。私たち家族は、27日午後4時すぎに葬儀会場に到着した。すでに友人、親族が80人以上集まっていた。遺体を安置した葬儀会場に入った。すでに棺桶に安置され、棺桶の背後に花輪と故人の写真が置かれていた。
 ちいさな葬儀会場には、弔問者の姓名を書いた縦長の紙が数十枚、短冊のように壁にぶら下げられている。その他の場所を大小の花輪15基ほどが占領している。花輪は直径1.5~2メートルほどで、白を基調として青・黄・ピンクなどを花模様にあしらったものである。日本のような白黒2色の殺風景な色合いではない。清澄な感じの花輪だが、もしも日本の葬式で送ったら派手すぎてひんしゅくを買うかもしれない。
 花輪の中心には大きな文字の「奠」(供え祭る、の意)があり、その左側が「沈痛」、右側が「悼念」と縦で印刷されている。「沈痛、悼念」は心からお悔やみする、の意である。どの花輪にも同じ文字が書かれている。花輪は葬儀場で売っており、値段は50元から70元くらいだとのこと。
S先生や茜たちが作っている日本の留学や研修体験のある人びとの団体、「重慶櫻花倶楽部」(重慶桜クラブ) の花輪もあった。葬儀会場に入りきらない花輪は、そとの1、2階吹き抜けのフロアに計7基ほど飾られていた。茜の出した香典は、友人たちと同額の100元。私は、外国人の友人として別途300元出した。重慶では、最近の香典の相場は100元とのことである。自家で以前受領した金額に物価の変動を考慮して持っていくのは、日本と同じである。

 弔問客用として、小さな葬儀会場内にテーブルが5卓、外のフロアに10卓ほど並べられ、テーブルを囲んでそれぞれ5~8人ほどが座っていた。来客はお茶を飲み、キヤンデイー、ピーナツ、西瓜のタネを食べながら、静かに語らっている。弔問客の服装はいろいろであるが、派手な色彩の服を着ている人はだれもいない。中国には黒の喪服を着用する習慣はない。しかし、葬式に赤系統の服はご法度である。葬式といっても、仏教の僧侶も道教の道士もこない。念仏もないし、お焼香の香りもない。弔問客は、静かに雑談しているか、テーブルを囲んでマージャンをしていた。数えてみると、会場内では、5卓のテーブルのうち2卓、フロアでは10卓のうち6卓でマージャンをしていた。結婚式会場でも宴会の始まるまでの2、3時間、宴会が終わったあとの2、3時間、来客はマージャンやトランプ遊びを楽しんでいる。昨日の葬儀ではトランプ遊びはなかった。舗道や公園でみかけるマージャンでは、小額紙幣をだして賭けマージャンをしているが、葬式では賭けはしていないようである。

 S先生に、ご焼香をしたいがどうしたらよいのか、と尋ねた。すると、棺桶を安置した会場とは離れた、フロアの一隅に連れていかれた。コンクリートで作られた可燃ごみの焼却施設のような場所である。上がコンクリート棚でその上に位牌が置かれている。棚の下がかまどのようになっている。故人の姓名が書かれた位牌の両側には、中国の寺院でよく見かける紅色の長いろうそくがちいさな炎を点けている。位牌のそばに黄色い馬糞紙で作られた長方形の「紙銭」の札束が無造作に置かれている。S先生にその 「紙銭」の札束1センチほどを渡され、数枚をろうそくで点火してかまどの中に入れた。残りを2、3枚ずつ解きほぐしてかまどに次々にくべた。その後、両手を合わせて3回頭をさげた。中国では棺桶の前で、粉末の線香を香炉にささやかに撒くという焼香はない。盛大に 「紙銭」を焼くのである。葬儀場では火災を恐れて、葬儀会場とは別の場所にコンクリート製のかまどを設置しているのだ。なにせ、極楽浄土も金次第なのだ。死線を渡るのに5銭銅貨を死者にもたせた昔の日本人のみみっちさとはレベルが違う。

 5年前に亡くなった私の母の葬式は仏式だった。位牌は僧侶に書いてもらったが、 戒名をつけるとえらく高くなるというし、母への私たちの記憶は生前の姓名と分かちがたくあるから、位牌には生前の姓名を書いてもらった。戒名だけで坊主にナン万円もボロ儲けさせるのはしゃくだ、という思いもあったが、それでも1、2万円はかかったと記憶している。だから、位牌の値段に興味をもった。すると、S先生は葬儀会場に隣接した売店に連れていってくれた。黒い位牌は、葬儀場の職員に銀色の筆で姓名を書いてもらう。代金は計数十元也である。だから位牌は安いのだが、骨壷は安いのは200元弱、高いのは1500元近いのもある。木材の材質、彫刻、装飾など実にさまざまである。日本のような白い円筒型の石材ではない。大理石のような材質の石材の骨壷もあるが、いずれもミニサイズの棺桶様の形である。縦20センチ、横40センチ、高さ15センチほどだ。骨壷だと知らなければ、これを贈られた日本人は大型のアクセサリー箱だと喜ぶだろう。

 28日の午前中に火葬に付した。今回は、無宗教で僧侶も道士も呼ばないという。四十九日の祭祀や納骨時には呼ぶ人もいる。骨壷は最長で1年間、「江南殯儀館」が所属する公立の「四公里公墓」が保管してくれる。その保管場所が葬儀場から見上げた山の中腹にある。下界を睥睨するように建っている数奇屋造り風の3、4階建ての豪邸である。屋根の下の壁にはマルで囲まれたおおきな「福」の字のレリーフが飾られている。安住の地に定着する前の高級賃貸マンションである。
この公墓は歴史の長い公墓だが、今でも墓地を売りに出している。1区画の相場は8000元だとのこと。位牌は自宅に持ち帰って四十九日の期間焼香して拝む。その後は、ときどき出して拝む。中国では、自宅に仏壇を置くという習慣はない。墓は一族の墓ではない。個人または夫婦の墓だ。だから、日本のように本家や長男が墓や位牌を管理継承するという習慣はない。たしかに墓は購入するのだがそれは永代使用権を購入するのとはちがう。つれあいが亡くなったら、残された妻(夫)はひんぱんに墓参をする。子供たちも命日や清明節(4月3日)くらいは墓参をする。孫の代になると祖父母の記憶は薄れてしまうから、きっと墓参りはしないだろう。しかし、親や兄弟の墓参りはするのだから、親不孝とはいえない。これが、日本の一族の墓とは違うところである。

茜の両親は仲良く重慶市郊外の歌楽山公墓に眠っている。S先生に、これでご両親は夫婦一緒になれるね、と言ったら、一瞬表情が曇った。それからおもむろに口を開いた。父親の命日は知らないし、遺骨もないから、墓はない、という。1957年の反右派闘争のときに「反革命」の政治犯として逮捕され、同年11月に獄死したという。S先生は、きっと餓死したのだろうという。今から51年前のことだ。父の生年は尋ねなかったが、母は81歳でなくなったから、同じくらいの年齢だったとすれば、30歳前後だっただろう。
公安局は、家族に同年11月に獄死したと通知しただけで、遺体も遺骨も引き渡さなかったという。だから、どこに埋葬されたのかも知らない。当時の政治環境では、通知内容以上のことを尋ねようにも、しっぺ返しが恐ろしくて問い合わせることはできなかった。父親の濡れ衣が晴れたのは、1979年に時の胡耀邦政権が反右派闘争の被害者の政治的復権を実施したときのことである。20年間以上政治犯の濡れ衣を着せられた父親も、残された妻や息子たちも、不当な政治的差別を受け続けたのである。

さて、私は小一時間ほど葬儀場にいて帰宅した。茜は28日の朝方帰宅した。茜の両親が亡くなったとき、S先生は葬儀場での通夜につきあってくださった。だから、茜は葬儀場で夜明かしするつもりでちょっと厚着をしてでかけた。葬儀場には食堂や簡易の宿泊施設がある。昨晩は、遺族につきそって親類や友人たち十数人が通夜につきあったとの由である。
夜になって友人達は少しずつ帰宅した。茜や友人たちは、雑談にもマージャンにも飽きてしまったので、S先生の同意をえて夕食をとるために町中に下りた。実際には、疲れをとるために足マッサージ(中国語で「洗脚」という)の店に入った。そこはご馳走はでないが、バイキング・スタイルの食事ができる。マッサージを終えたあとは、リクライニング・ベットで朝まで眠ることもできる。茜は朝になって足マッサージ店で軽食をつまんでから帰ってきた。わびしい葬儀場で夜明しして、消耗して帰宅するかと思ったら、リフレッシュして意気揚揚と引き揚げてきた。日本流にいえば、「なんとも罰当たりな」と思うが、これが中国流のつきあいなのだろうか。

〔追記/5月4日〕
 今年の中国では、5月1日から3日まではメーデーの3連休であった。S先生は、2日の昼間、葬式の出席へのお礼の意味で親しい友人たちに昼食会を設定してくれた。日本で言う香典のお返しである。25人以上の友人が招かれた。おおむね「櫻花倶楽部」の友人である。会食ののち歓談をする機会があった。そこで、もう少し葬式のことを尋ねてみた。
 不躾ながら、葬儀費用は香典収入で間に合ったかどうか、聞いた。母親は学校の教師をしていたので、退職後毎月1200元の生活費を政府から支給されていた。今回はこの生活費の2年分(24か月分)プラス5000元が支給された。
 5000元は「喪葬費」つまり葬儀と埋葬の費用である。合計で3万3800元である。どうやらこれで足りたようである。だが、まだ墓地は買っていない。今回の葬儀場がある「四公里公墓」で墓地を分譲しているので尋ねたという。1区画で最も安いのが1万8000元、平均で2万8000元(約44万円)だという。これから家族と相談して決めたいという。
 私の両親の墓は奥多摩霊園にある。大手の墓石屋「大野屋」が十数年前に売り出したときに、母が自分で見に行って購入を決めた。たしか土地代金だけで150万円以上は支払った。最近だったらもっと高いのかもしれないが、生活費のレベルの違いを考えると、いまどきの中国の(具体的には重慶の)墓地の値段はそうとうに高い。しかも一家の永代使用ではなくて、一代限りである。

 以上、「第5信」本文で「墓地の相場は8000元」と書いた部分を訂正する。もうひとつ訂正がある。葬儀の来客はマージャンやトランプ遊びをすると書いたが、これは一般の来客だけである。親族は客の接待に追われていてそれどころではない。親類は粛々と時間の過ぎるのを待っている。またS先生によると、いまどきの上海では来客もマージャンやトランプ遊びは慎む場合が多いとのことである。


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(これは清明節の時、茜が両親に供えた紙銭の一種です。現物は縦10cm、横20cm))
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by zuixihuan | 2008-06-01 13:54 | 重慶日記(完) | Comments(1)