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重慶日記/(2009年1月24日)

重慶日記/(2009年1月24日)

 私の重慶滞在も残すところあと2か月となった。最近は集めた重慶地方史関係の史料整理と原稿作成のための準備作業に追われている。やっているのは歴史学であるが、歴史的現実のある部分は今に続いており、ある部分は今とは断絶している。集めた材料のうち断絶の面と継承(連続)の面について若干紹介して、私の勉強の経過報告にしたい。

 断絶面について。重慶は北京よりもはるかに西にある。いまでも毎朝7時過ぎには起床しているのであるが、大寒をすぎた最近では朝が来るのがまことに遅い。午前7時は午前5時前の暗さである。中国の標準時間は北京時間で、東西に長い国家であるのに、中国政府の制定した標準時間はひとつだけである。標準時間は重慶に住む私の体内時計とはまったく食い違っており、生活感覚がくるってしまう。こういう時間の決め方は、北京にいる権力者の都合だけを優先しており、地方の人々の生活感覚をまったく無視したやり方ではないか、と思う。こういう思いは、重慶に来るたびに私が感じていたことである。ところが、抗日戦争時代の史料をみていて気がついたことは、その時代の中国では複数の「標準時間」が採用されていたことであった。1939年5月に中央政府によって制定された「全国各地標準時間実施弁法」によれば、全国は東から長白区(東北地方)、中原区(華東)、隴蜀区(重慶、蘭州など)、回藏区、崑崙区に分かれていた。南京や上海・北平は中原区、重慶は隴蜀区であった。ハルビンが朝8時半のとき、上海は8時、重慶は7時、ラサやウルムチは6時、カシュガルは5時半だった。ただし、抗戦の臨時首都は重慶であった。国民政府の要人はすべて南京から重慶に転居していた。そこで、国民政府は、「軍事上の便宜」を考慮して1939年6月1日から暫定的に隴蜀時間を全国標準時に決めた。なんとその時代は重慶の生活時間が全国標準時になったのだ。その後、戦後の1945年11月に国民政府は5区域ごとの全国標準時制にもどした。この制度は国民党が共産党に敗れて台湾に敗走するまで続いた。共和国政府は全国に居住する民衆の便宜をかんがえたならば、米国並みに5地域ごとの標準時制を採用したほうが、よいのではないか。国民政府の政策の中にも継承すべき政策があったのだと、私は考えている。なお、抗日戦争中に日本は中国でまことに無茶な標準時を採用していた。それは、1942年2月1日から日本軍占領下の全中国で「日本標準時」の採用を強要したことである。これも支配者の都合の押し付けであった。

 継承面について。重慶で生活を始めて慣れなかったことのひとつは道路の横断であった。交通が完全に自動車優先であり、横断歩道や信号が極端にすくない。しかし、問題は歩道を横断するさいにどうしても最初に右側を見てしまうのである。車はまず向かって左手からくるのに、である。この事実にそうとう面食らってしまう。共和国政府が国民政府から継承した制度のうちのひとつは、自動車の右側通行である。もともと日本や英国と同じ自動車の左側通行制を採用していた中国が全国一斉に右側通行に移行したのは1946年1月1日からである。60年ちょっと前の出来事である。議論は戦争末期の1944年から始まり、対日戦勝時の1945年8月に議論が本格化した。その理由を探ると、いくつかあるが、抗戦末期におけるアメリカ車の輸入である。米国の軍事援助物資のなかでは自動車の輸入はそうとうに多かった。フォード、シボレー、ドッジ、スチュードベーカーなどである。これらアメリカ車の運転席は米国内が右側通行のために車両前方の左側にあった。輸入してそのまま中国国内で利用するのは大変に不便だった。運転操作性が悪いので、よく交通事故の遠因になった。そこで、運転席の改造をしたのであるが、そのコストは車両購入原価の5分の1もかかった。世界の趨勢も右側通行になっていた。そんなわけて当時の中国国民政府も自動車の通行方式を思い切って変えたのである。中華人民共和国の指導者は右よりも左が好きな人々だったが、こればかりは前政権を継承したのである。しかも、変更の遠因は「アメリカ帝国主義」の車両増加だった。

 そんなわけで、日常生活のなかにも伝統の継承と断絶が混在して、庶民の生活を律しているのである。
 

by zuixihuan | 2009-01-26 04:15 | 重慶日記(完)