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佐々木斐夫先生の思い出

佐々木斐夫先生の思い出
                             内田 知行
 
早春の2010年3月13日、佐々木斐夫(あやお)先生が逝去されました。1913年横浜市生まれで、享年96歳でした。

5年前の3月に東京国立市のお宅を整理して京都に転居されるまでの二十数年間、親しくお付き合いさせていただきました。先生の自伝的作品のタイトルにふさわしく「心やさしい」ユマニストでした。お引っ越しの数日前に、「これが両親への最後の墓参りになるかもしれない」とおっしゃって小平霊園に行かれたときには、私の車で送迎させていただきましたが、ほんとうにその通りになってしまいました。

先生は西欧思想史家で長らく成蹊大学で教鞭を取っておられましたが、私が国立のお宅の出入りを始めたのは、御定年後でした。お宅の応接間には大きなグランドピアノがあって、クラシックが大好きでした。そして、話題はキリスト教思想史や近代フランス思想史から現代文学に、そしてクラシック音楽にと広がっていきました。
 
大学院時代に仲良くしていたインドネシアからの留学生が「とってもいい先生がいるんだ」というので、ご自宅に押し掛けたのが、お付き合いの発端でした。その留学生は毎週日曜日自宅で「インドネシア語講座」を開いており、私も参加することにしました。数人いた生徒のなかでは私は劣等生でした。しかし、佐々木先生は真剣な生徒で難しいインドネシア語の文章をすらすら解釈していました。私のインドネシア語体験は、その留学生が研究を終えて帰国するまでの3か月間で終了しました。

その後1997年9月上旬に佐々木先生のインドネシア・バリ島旅行にお供をしました。先生は当時、バリの宗教文化や生態・自然環境に関心をもたれて、雑誌『みすず』などに文章を連載されていました。バリ文化研究が完成しなかったのは、先生には心残りだったろうな、と思いますが、天国できっとやり残した研究を纏めていることでしょう。あるいは、久しぶりに再会した丸山真男先生や竹内好先生たちと哲学談義をしていらっしゃるかもしれません。

いま私は中国とフランスとの文化交流史に興味をもっていますが、これは、佐々木先生のご教示の御蔭?です。定年退職後学会活動をおやめになったのちも、先生は財団法人のロマン・ロラン研究所(於京都)の活動には、いそいそと参加されていました。先生はこの研究所の理事として、創立時から関わっていらっしゃいました。私が、バルザックやロランの文学が好きだというと、「ぜひロマン・ロラン研究所で話をしてください」と誘われました。

私は、自分なんかが出る幕じゃない、と生返事をしていました。しかし、2003年になって、あれよあれよと事態が進行してしまい、とうとう翌年秋に京都で発表をするハメになってしまいました。結局、フランス語も勉強したことがない私が選んだのは、「中国の知識人はロマン・ロランをどのように評価したか」というテーマでした。

ロランは第2次世界大戦(中国では抗日戦争)末期の1944年12月30日に死去しました。当時の中国のメディアでは、外国の知識人が死去すると追悼文を掲載しました。私は以前から延安の『解放日報』(中共中央機関紙)や重慶の『新華日報』(中共系新聞)を史料に使っていました。抗戦時代に中共系新聞が編集した外国の文学芸術関係知識人にたいする追悼特集を国別にみると、最も多いのはロシア人でしたが、西欧関係者では、ロランの死が最も多くの注目を集めていました。反ファシズムのヒューマニストとして生きたロランは、当時の中国知識人が最も尊崇した西欧の知識人でした。

2004年9月、私は京都の関西日仏学館でつたない講演をし、それを纏めて同研究所の機関誌『ユニテ』32号(2005年4月)に「抗日中国における中仏文化交流:中国の知識人はロマン・ロランをどのように評価したか」を発表させていただきました。そして、これは終わりではなくて始まりでした。退職後はフランスに留学しようか、などという途方もない夢を抱くようになったのも、NHKラジオの初級フランス語講座を聴くために朝7時すぎに起きるようになったのも、いま思えば佐々木先生のお導きの成果?です。心から「非常感謝」せずにはおられません。

佐々木先生は、1938年12月、召集を受けて入隊し、41年春に除役退院するまでの2年余りの期間、半ばは内モンゴルの前線で、半ばは北京や内地各所の陸軍病院で転々と移動しながら過ごされました(『心やさしい友』みすず書房、1977年刊、の「あとがき」より)。

お宅を訪問すると、ときどき内モンゴルの兵卒時代のことを回想されました。正義感の強い先生は、要領の悪い輜重二等兵だったようです。結核を発病して北京郊外の病院に入院するまえに、内モンゴルの駐屯地で生活したときの思い出を懐かしく語ってくださいました。

先生の誇りは、「戦地で中国人にむけて弾丸を撃ったことが一度もない」ことでした。「内地」の母親から甘いお菓子が届くと、村の子供たちに配って喜ばれたそうです。村で日本軍に使役された聾唖の男性をかばったら、上官に張り倒されたこと。深夜まで一人で軍馬の飼葉切りをさせられたが、要領の悪い作業を見兼ねたその聾唖の村びとがそっと現われててきぱきと切ってくれたこと。その村には古いカトリック教会があって、そこを訪れて西洋人の神父と歓談したこと。こういう回想のあとで、もう一度あの村に行ってみたいなあ、とおっしゃるのでした。

抗日戦争を描く中国の映画には凶悪な「日本鬼子」ばかり出てきます。なるほど中国侵略は歴史の事実ですが、戦場には日本の民衆と中国の民衆とのこういう交流もあったんだなあ、と思いました。佐々木先生のような兵士はきっとたくさんいたんだろう、と今では想像しています。

最近、俳優の三國連太郎(今年87歳)の回想を読みました。三國も召集されて中国大陸に送られました。彼は次のように書いています。「敵に襲われ、安全装置を外すことを忘れて撃てなかった。戦地で実弾を1発も撃たなかった。3歳上の班長が『生き残るには仮病を使え』と言い残して、南方へ移動していきました。体温計をこすって微熱があるようにして陸軍病院に送られた」(朝日新聞・夕刊、2010年3月29日、「人生の贈り物 兵役を逃れるため、大陸密航を企てる」)。三國の場合は、最初はあがって安全装置をはずせなかったようですが、そのあと撃たなかったのは自分の意思だったのでしょう。「仮病」も「撃たないこと」も、戦地では勇気の要ることです。
 
私は、1998年から2004年まで、友人数名と「日本占領下の内モンゴル」研究会をしました(その研究成果が、内田知行・柴田善雅編『日本の蒙疆占領』研文出版、2007年、です)。その時に、佐々木先生の部隊の駐屯した村を探しました。先生の回想と内モンゴルのキリスト教布教史の文献などから、それは現在の内モンゴル自治区トムト(土黙托)右旗の二十四傾地鎮という村だと推定しました。

この村には、2002年3月中旬に行ってきました。フホホトから包頭にむかう高速道路の中間にサラチという町があります。そこで高速道路を下りて南下し、30キロほどのところでした。二十四傾地鎮は漢族の村で、私が訪れたときの人口は3000人ほどでした。抗日戦争時代には、包頭に司令部を置いた日本軍が兵力30人ほどの守備隊を派遣した村でしたが、彼らのなかに若き日の佐々木先生がいたのです。

この村には、100年以上前に建立されたカトリックの教会堂があります。教会の庭を見学していると、近くの信徒や中年の漢族の神父さん、2人の若い修道女とお会いできました。村人の大半は今日でも敬虔なカトリック教徒だそうです。文革時代に荒らされた聖堂は、1980年代に再建されたそうです。この新しい聖堂の北側には神父さんや修道女が住む平屋の長屋がありました。その長屋の北縁に天井の高い古い倉庫があるのですが、民国時代にはそこに聖堂があったそうです佐々木先生が訪れた聖堂はそこだったのだろう、と思います。教会の東側を南北に公道が走っており、日本軍守備隊の兵舎はその公道に面して建てられていと、70歳代の信徒老人は教えてくださいました。

帰国後、土産話とともに現在建っている新しい教会堂の写真を佐々木先生にお見せしました。遥か昔を思い出すような視線で写真をご覧になっていた先生の表情を、今でも思い出します。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
(2010年5月)

by zuixihuan | 2010-05-29 08:55 | 読者の投稿