東京都東久留米市の「グループ・中国だい好き」です。中国がだい好きな方々とのネットワーキングを大切にします。


by zuixihuan

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市民自主企画講座 「中国の魅力にふれる」 全3回
第1回 「現代中国の宗教事情」

b0098096_21422086.jpg2008年は中国宗教の「復興」元年!
北京オリンピックを舞台裏で支えた人の中に宗教団体もある。今も四川大地震の被災地でボランティアとして活躍している宗教団体もある。
チベット問題も、テロに揺れるウイグル問題も、それを解くカギは宗教にある。

■講師:清水勝彦先生 朝日新聞社ジャーナリスト学校シニア研究員

  講演内容
1 私と中国宗教との出会い
2 北京オリンピックも宗教と深い関わり
3 四川大地震が中国の宗教を劇的に変えた
4 各宗教の現状と課題
  (チベット仏教、イスラム教、カトリック、プロテスタント)

■日時:2008年10月12日(日)13:30~16:30
講演後、清水先生と自由に質疑応答する時間を予定しています。
■場所:中央公民館第4集会学習室
■主催:東久留米市立中央公民館
■企画・運営:グループ 中国だい好き
■お問い合わせ:042-462-4010(川村)

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by zuixihuan | 2008-09-27 21:41 | 催し/企画/情報 | Comments(0)

西安便り3

西安便り3(2008.9.18)

――没有尝过味道就感到讨厌(食わず嫌い)――

你们好!

“中国だい好き”の皆さんお元気ですか。
西安に来て約1ヶ月になりました。先週から授業も始まり、何となく落ち着いた気分になったところです。2週間ほど早く来ましたので、当初は、留学生楼の日本人は春からいる沖縄大学生3人と数人のみで、私は1人で1日1ヶ所公共汽車に乗って名所旧跡めぐりをやっておりました。

b0098096_6253733.jpg毎日フロントの叔母さんに、何処のバス停から何番のバスに乗れば良いかを聞いて行くのですが、バスを降りてから何度も迷子になったり、乗るバスを間違えたりしたお陰で、街の方向感覚や、帰りのバス停等の目星が少し着くようになってきました。  
  
西安交通大学(地元では「交大」といいます。)のキャンパスは南北4km、東西3kmくらいの広大な敷地で、大学周辺のバス停も南門、東南門、北門と3ヶ所あります。学生約2万人が生活し、勉強している規模ですので、校舎や図書館や研究棟以外に、2ヶ所大きな学生食堂があり、麺や包子の専門店風の食堂も数ヶ所あります。また、数ヶ所の売店と銀行、郵便局、クリーニング店等がありキャンパス内だけでも生活できる緑の多い住みやすい環境となっています。 
  
語学留学生は、アメリカ、カナダ、ドイツ、オランダ、スペイン、カザフスタン、パキスタン、モンゴル、韓国、アフリカ系、それに日本で約100名ほどです。とても国際的で賑やかです。日本人は15名で、それ以外に本科生1人と1ヶ月ほどの短期留学が4、5名います。大体若者は大学の3年生で1年間留学の予定者が多く、大学の単位となる人や休学してきた人と色々です。

b0098096_6275650.jpg日本人の60歳前後のおじさんも私を入れて5人います。皆さん多彩なキャリヤをお持ちで、沖縄県庁でハブや海蛇の毒の研究をやっていた人や、鉄鋼のビジネスマンであったり、書道家であったり、考古学に係わる行政官であったりで、中国との係わりの深いバイタリティのある方々です。今年の春から半年、北京の北方工業大学に留学していた人もいます。中年のおじさんも44歳の元小学校教員が1人います。

授業は第2班に編入で、「読写」「口語」「听力」の三教科を週5日、朝8時から12時までやっています。文章や語句は易しいのですが、先生の話やその場で会話文を記憶してペアーで発表したり設問を作ったりするやり方は新鮮で刺激的です。朝15分くらいは先生の話が听不懂ですが、時間が経つと何となく少し聞き取れるような気になるのは不思議です。まるで、頭の中の体操をしてもらっているような気分で、心地よくも感じます。

1週間の授業が終わったところで中秋節(9月14日)となり、3連休でした。旧暦では7、8、9月の3ヶ月が秋で、8月15日は丁度秋の真ん中なので「中秋」と呼ぶそうです。古人は夜の月が最も円く明るいと考え、「賞月節」「団月節」とも言ったようです。
交大も半数くらいの人は実家に帰ってようで少し靜になりました。何処に行っても色々な月餅を売っており、この時期中国人には欠かせない食べ物のようです。5種類ほど食べてみましたが、餡子あり、木の実ありで大変美味しかったです。
9月14日(日曜日)の夜は、鐘楼、大雁塔、南門城壁などがライトアップされ、花火も上がって、若者が多く集まったそうです。私たちは、午後城壁を南門から西門まで歩いて疲れたので、早々に留学生楼に帰り、夜は庭で月を見て、花火は音だけを聞いて一杯やりました。

b0098096_6223514.jpg  前の日の土曜日は、日本料理屋で日本人会があるというので、出席しました。行ってみると、西北大学、西安師範大学、西安外語大学、美術大学と交大の5校の40名ほどの学生の交流会でした。我々も当然学生ですので一緒に大騒ぎして、料理はすき焼きで楽しい夜でした。

私は、何時まで続くか判りませんが、真面目な学生を始めたところです。未だ何処に行きたいとか、何が欲しいとかくらいしか会話ができません。もう少し中国語が聞き取れるようになりましたら、またお便りします。

“中国だい好き”の皆さん。お元気で、色々なことにチャレンジして楽しんで下さい。

再見!
2008.9.18
長尾圭介

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by zuixihuan | 2008-09-20 06:18 | 西安便り | Comments(0)

11月の中国語教室

11月の中国語教室

入門班(土曜日6:00-8:00)
8日  中央地区センター
15日 中央地区センター
22日 中央地区センター  
29日 公民館
*11/22は1課から5課までの単語のテスト、その何週間か後には文章のテストです。


初級班
1日  中央図書館集会室
8日(休講)
15日 中央町地区センター
22日
29日

中級班 
3日   月
10日  月 
17日  月 
24日  月

会話班
4日  火   9時30分~  図書館
12日 水   13時~    男女平等センター 中止
19日 水   9時30分~  男女平等センター 
25日 火   9時30分から  図書館

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by zuixihuan | 2008-09-18 06:30 | 教室日程 | Comments(0)

西安便り2

西安便り2 (2008.9.6)

不経一事、不長一智
西安2週間目・・


你门好!

皆さんお元気ですか。西安は8月29日に雨が降ってから、急に秋めいてきまして朝晩は寒いぐらいになりました。

b0098096_11242232.jpg西安交通大学(市内でも「交大」で通じます。)は1946年に国策で上海から移設していますが、その時植えたと思われる長恨歌にも書かれています梧桐(鈴掛の木・プラタナス)の立派な、直線で1.5km程の並木道があります。市内の街路樹もこの木が多く植えられています。木の5m位のところで頭を切り10本程の枝を出していますので、とても立派です。日中は日を遮ってくれますので、格好の散歩コースとなっています。冬は葉が落ちて、また風情があるそうです。


前号に書きました新入生の軍事教練は10日間で終わりました。女性を含む本科生約5,000人が全員参加していたようです。昨年は2週間ということでしたが、今年はオリンピックの関係で期間を短縮したようです。最初はバラバラでした行進も最後の頃は整然と出来るようになっていました。また、本物の鉄砲を持って匍匐射撃の訓練もしていまます。どこにあるのか判りませんが、射撃場での実弾訓練もあるそうです。それにしても、炎天下で朝6時から夜10時頃までの教練には恐れ入りました。

私は、28日(火)に入学手続きを済ませ、9月2日に「西安国際旅行衛生保険中心」で健康診断の手続きを行いました。学費は半年で7,250元、寮費は8,640元、ネットの接続費が540元、合計16,430元(円換算で約260千円)でした。健康診断は日本で済ませていましたので再検査は無く、書類提出のみで60元です。これで半年暮らせます。残りの手続きは学内での買い物や食事に必要なプリペイカードの発行と居留許可取得です。プリペイカードは約5千人の新入生と一緒に作っているそうで遅れています。これがないと食事や買い物に不自由します。

b0098096_11245373.jpg最近の私の食事は大体次のパターンです。朝食は留学生楼の直ぐ近くに清真の食堂と売店がありますので、大体そこで足ります。小さい包子が1個4毛、菜餅・肉餅が1元、豆乳が6毛、ジュース風の飲み物が1元です。油で揚げたものが他にも沢山ありますが、あまり好きではありません。朝食は2元で充分です。昼食は麺類です。坦坦面や炸醤面など種類は豊富ですがいずれも唐辛子や香辛料がたっぷりです。料金は学食では4元、学外の食堂では6元位です。夕食は、学食でご飯に2~3種類おかずを添えて5元~8元です。学外の食堂でシシカバブを肴にビールを飲んでも1人20元あれば足ります。変わった味の1元生ビールの店もあります。料理はとにかく香辛料がたっぷりです。油を使った料理は胃にもたれます。他に飲み物や果物を買いますので、大体1日20元あれば食事ができます。少し程度の良い餐庁は、数人で行けば品数も多く頼めますので色々な料理を楽しめますが、大学周辺の店は1人50元あれば足ります。1人100元(1,600円)以上の三桁の食事はまだしていません。

b0098096_21215893.jpg西安の名所旧跡巡りも手続等で一時中断しましたが、3週間の予定で慶応大学の短期留学生が14名来ていますので、30日に同行して半坡博物館、華清池、秦始皇兵馬俑を見に行ってきました。兵馬俑は見たいと思っていました史跡の一つですので、早々と見ることが出来感激です。紀元前にこの様な精巧な工芸技術をもっていたことと皇帝の権力の大きさには驚嘆します。大勢でゾロゾロ歩いて見るにはもったいない気がしました。

前日なんとなく物足りなく感じたものですから31日は、1人で大興善寺を見に行きました。西安で最も古い寺の一つで唐代には仏教経典翻訳の中心地であったということですので、遣唐使の留学層も屹度来ていたものと思われます。寺は戦乱で破壊され解放後再建されていますので、古い遺跡も一部ありますが、仏像はキンキラの布袋様であったりして、市民が大勢大きなお線香を持ってお参りしていました。年配者だけではなく、若者も多くお参りしていました。

市内バスには大分慣れたつもりでしたが、今回も行きもヨレヨレ帰りもヨレヨレでした。停留所は小雁塔の二つ先の小賽というところですので、交大前から2系統の路線バスが出ております。前回と違う路線バスに乗ったのですが、小雁塔近くのはずが中々見た景色になりません。どうも少し乗り過ごしたかなと思い下車して、尋ね尋ねて何とか大興善寺にたどりつきました。道を3回聞きました。中国の若者は大変親切で、判りやすいところまで一緒に案内してくれたり、知らないと携帯電話で聞いて教えてくれます。

帰りは大体の場所の見当をつけていましたので、停留所は直ぐ見つけることができました。しかし、待てど暮らせどバスが来ません。私と一緒に長く待っている人が地元の人が四、五人いますので、バスの便数が少ないのかと思っていました。どうも様子が変なので、交大の方角(東方向)に向かって違う道路まで歩き、次のバス停に移動しました。ここでも、バスの案内看板があるのにバスが来ません。仕方が無く別のバスで大雁塔まで行き、そこで乗り換えて帰ってきました。帰ってから聞きますと、私が行ったあたりは現在地下鉄工事をやっており、バスによっては路線を変更しているということでした。路線を変えるなら、当然通らないバス停の案内看板にも、またバスにも表示すべきと考えますが、何処にもその案内がありませんので知らない人には判りません。何処かで広報するとそれで終わりと言うところが中国らしいです。だれも文句を言わないのかと不思議に思います。

まだ授業が始まるまで1週間ありましたので、洛陽に火車で行きたいと考えていたところ、同学に沖縄県庁でハブや海蛇の毒の研究をしており、30年来中国とも交流があったという60歳のバックパッカーがおりまして、一緒に行くこととしました。彼は7月から来ており、私が到着する前もモンゴル自治区に一人で行ってきたばかりと言うことでした。

出発前日に交大の近くの切符売り場で硬座を買うことが出来ました。昔の旅行記を読みますと列車の切符を買うのが一苦労という話が出てきますが、今は情報化によりかなり楽になっています。駅の入り口での荷物検査、待合室、改札、ホームとも始めての経験ですので、雰囲気を楽しむことが出来ました。西安から洛陽までの列車の所要時間は5時間でした。目に着いた景色は、黄河と黄土高原と原発でした。原発は西安近郊も工場と居住区の中にありましたが、鉄道周辺にも工場や住宅地に近接したところにあり、7~8箇所見ました。これもなんとなく不思議な風景と思いました。

洛陽に着きますと駅前は客引きがいっぱいおり、あまり良い雰囲気ではなかったので、駅から少し離れた中心地あたりに行って、先ず宿を探すこととしました。バスで移動した後、ぶらぶら歩いていますと○○招待所という看板が目に付くようになりました。その内の一つが教育招待所で側に幼稚園もあることから、大丈夫であろうということとなり、交渉して一人45元で泊まることとしました。

その日は荷物を置いて、白馬寺に行きました。宿の近くのバス停から19遍目の終着が白馬寺です。広大な敷地で別区画には尼寺もありました。古い舎利塔や馬の石像がある立派なお寺でしたが、あまり馴染めませんでした。

教育招待所は値段も安く、交通便も良いので2泊するつもりでしたが、翌朝周辺の青空市場で包子を食べ帰ると、フロント(フロントといってもおじさんが一人いるだけ。)が別の部屋に呼び込み、「昨日タレ込みがあってもう泊められないので、直ぐ出て行ってくれ」と言います。「地球の歩き方」に中国の宿泊施設には華僑と中国人しか泊めてはいけない施設があるという記載がありましたが、どうもそんなことではないかと思います。

近くに地元の新聞社が経営している報業賓館があるので、そこに移動しました。1泊朝食付きで1人82元です。部屋はかなり良くなりました。中国では、一人部屋で150元、二人部屋で一人100元位のホテルが我々一般の日本人旅行者の目安かと思います。ネットや旅行案内には300元位の飯店や酒店が載っていますが、賓館も泊まるだけでしたら悪くありません。

b0098096_21272582.jpg二日目は龍門石窟に行きました。宿の近くのバス停から20番目の終着停留所が目的地です。ところが10番目の停留所当たりで道路の規制をしており、バスから下ろされてしまいました。運転手も知らなかったようです。何故規制しているのか判らないので、仕方なくバス停一つ位を歩いて見ました。地元の小型三輪車は通れるようなので、一人5元で乗り込みましたが、バス停3つ位行くとこれも規制され、仕方なく裏道に迂回しました。幹線道路は舗装した立派な道ですが、一本裏に入ると凸凹の泥道です。これも目的バス停の一つ手前で規制され、後は徒歩で龍門石窟のバス停までたどり着きました。しかし、ここも人規制をしており、先に行けなくなりました。30分程待たされて規制は解除されましたが、この日オリンピックの聖火の点灯式を石窟の前で行っていたようです。後でテレビの報道で見ますと中々良い絵を取っていました。学生や地元婦人会といった人たちを大勢動員していましたが、一般の人は完全シャットアウトでした。苦労しましたが、面白い中国らしいところが実感できました。
  
龍門石窟は感激しました。今回の中国で一番の名所旧跡と思います。とにかく広くて川の反対側を回ると香山寺や白園までは行く気がしませんでした。突厥が顔を削いだ仏像は痛々しいですが、則天武后が創建したという大仏は側で見ても川の反対側から見ても立派です。午後は洛陽博物館に唐三彩を見に行きました。これも良かったです。

3日目、同学の元気おじさんは禹州の古磁器の窯元に行くということなので、私はバスで西安に帰ることとしました。バスの所要時間は列車とほぼ同じ5時間で、料金は92元でした。この内1元は旅行保険です。バスの切符が強制的に旅行保険付きというのも面白いです。途中高速道路のサービスエリアに2回、途中下車をする人がいるのでインターを降りたのが2回でした。サービスエリアのトイレは綺麗ですが、インターのトイレは出口のところに水道があり、皆足を洗っていましたので、きっとすごい所と思います。恐ろしくて見ていません。これ以外にも高速道路の取り付け道路に停車して人を降ろしたり、乗せたりしています。これも不思議な光景でした。

今回の旅行でもう一つ感激したのは、寺や博物館で学割が使えたことです。40年来のことです。私は来週から授業が始まりますので、基礎から真面目に勉強するつもりでいます。中国だい好きの皆様も中国研修の準備をされていることと思います。お元気で秋や研修旅行をお楽しみ下さい。

再見!
2008.9.6
長尾圭介

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by zuixihuan | 2008-09-07 11:07 | 西安便り | Comments(0)

重慶日記 第19信(2008年8月26日・内田知行)

 24日(日)の夜、北京オリンピックの閉幕式が行なわれた。戦いがすべて終わって、参加者たちは夜空に咲いた数千発の花火を堪能したことと思う。もっとも、お祭りが余りにも盛大だったので、虚脱感に襲われている人びとも少なくないかもしれない。
今回は、地の利を生かした中国は51個の金メダルを取り、アメリカに替わって金メダル大国になった。私も家族とともに毎日、テレビ観戦をしていたが、普段はそんなに聴くことがない『義勇軍行進曲』が朝に晩に流れて、すっかりお馴染みになった。
私自身は、天皇讃歌の『君が代』よりも、勇壮な『義勇軍行進曲』のほうが遥かに好きだが、こうも毎日聴かされると食傷気味になった。受賞者も観衆も一体となって口ずさむことのできるこの歌はいいもんだ、とこういう国歌をもたない国民の一員としては羨望を禁じえなかった。

テレビでは、中国人が金メダルを取ると、おおむね国旗の掲揚と『義勇軍行進曲』斉唱の場面が流された。しかも、有名選手であれば何度もその場面が大写しで再放送された。しかし、他国の勝者の場合は、テレビ放送はこの場面を省略することが少なくなかった。そういう点では、テレビ観戦の映像というものは極めて不公平なものである。つくづく、マスメディアというものは民衆を“想像の共同体”に一体化させる機能を果たしている、と思う。ただし、いずれのオリンピック主催国においても同様のマスメディア操作が行なわれているから、これは北京オリンピックだけの特徴ではない。東京オリンピックだってそうだった。
 
今回は、フェンシング、ボクシング、ヨット、ボートなどこれまでのオリンピックではメダルに縁のない競技まで中国は金メダルを取った。大声援を得て予想外の力を発揮した中国選手が少なくなかった。
卓球などは、メダルに近くなればなるほど、オリンピックというよりも中国の国内大会のような様相を呈して、正直言って興を殺がれた。他の国の選手が弱いのが問題なのだけれども。金メダルの顔よりも、金メダルが期待されたのに無冠だった選手の顔のほうが記憶に残った。たとえば、ハードル走で金メダルを期待されたのに競技直前に負傷でリタイヤした劉翔とか、米国のプロ・チームから帰国したバスケット・ボールの花形選手、姚明とか、である(ダフ屋は劉翔の出場予定の試合のチケットを8000元、日本円で13万余円で売ったという)。

メダルを取った中国選手が多すぎて、かえって彼らの悲哀にドラマを感じた。最も鮮明な印象を残したのは、やはり閉幕式当日に行なわれた男子マラソンだった。35キロくらいまでケニア、モロッコ、エチオピアの選手たちがデッド・ヒートを演じた。私は往年の名選手、アベベに似た哲人の風貌のエチオピア選手を声援していたが、最後にはケニアの選手が金メダルをもぎ取った。
 
オリンピックは最終的には、スポーツという平和的な手段による国家と国家による“戦闘”という側面は免れない、と思う。今でも世界各地に戦争はあるのだが、グローバルな大戦争の危機はない。それゆえ、「愛国の情」というかナショナリズムの感情を内面から激しく掻きたてられるような試合は、ほとんどなかった。
1964年東京大会の女子バレーボールの日本とソ連の決勝戦や、1968年メキシコ大会の女子体操の決勝戦などは、今でも私には鮮明な感動が残っている。当時の私たちの心情では、日本の女子バレーボール・チームは、「バレーボールに」勝ったのではなくて、「ソ連に」勝ったのだった。

それから4年後、チェコスロバキアはスターリン体制を内側から民主化しようとしてソ連軍の弾圧・占領を招いた。このとき、ベラ・チャスラフスカはチェコの体操代表としてメキシコに行った。ソ連によるさまざまな参加妨害工作を突破しての参加だった。優美で凛とした表情のベラは、上位にひしめくソ連選手を圧倒して個人総合の金メダルを取った。あのときは、ソ連を除くすべての国の人びとが、ベラの一挙手一投足に声援を送っていた。ベラはジャンヌ・ダークとなってソ連を打ち負かしたのだった(彼女は帰国後も民主化運動に参加して、長く迫害された)。

1960年のイタリア大会では、無名のアベベが裸足で快走し、金メダルを取った。エチオピアに凱旋したアベベは国民的な英雄となった。その当時は、なぜスポーツ選手が国民的英雄なのか、私には訝しかった。後年になって、ムッソリーニのイタリアが1935年から37年にかけてエチオピアを侵略・占領して多くの民衆を虐殺したこと、エチオピア皇帝は英国亡命を余儀なくされたことを学んだ。アベベは、25年後にローマの丘を裸足で踏みつけて、イタリアに借りを返したのである。ただし、私の記憶にあるのは、靴を履いて寡黙に独走した東京大会のアベベである。

ハンガリーの国技は水球で、今回の北京大会でも金メダルを取った。1956年のハンガリー革命は、スターリン主義に抵抗した東欧で最大の民主化運動となったが、その運動はただちにソ連軍による流血の鎮圧を招いた。ハンガリーの水球チームは、戦車に蹂躙されたブダペストから粛粛と脱出して開催地メルボルンに向かった。同地での銅メダル決定戦でハンガリーはソ連に勝ち、メダルを取って国旗を揚げた。
この試合が、当時どんなにハンガリーの民衆を励ましたことか。昨年12月、ハンガリー語の佳作『君の涙、ドナウに流れ』を観て、初めて知った(タイトルは日本人向けの翻案)。これは、失われた1956年革命に水球を絡ませた、悲恋と愛国の作品である。私はチェコスロバキアやハンガリーの国籍には縁がないが、テレビや映画を観て一時的に他者の“想像の共同体”に連帯した。
 
上に述べたように、今回の北京大会ではナショナリズムの感情を内面から激しく掻きたてられるような試合はほとんどなかった。私は、これはかえって好ましいことだと思う。今次のスローガンを借りるならば、「一つの世界、一つの夢」に近づいているのである。
世界の警察官を任じている米国の金メダル数が激減し、ソ連の分解で多くの小国が生まれて跡目を継いだロシアのメダル数が減ったのも、慶事であろうか。私には、バルト海の小国リトアニアのバスケットボール・チームが準決勝に進出したのも、うれしかった。男子マラソンで全行程の3分の2までがんばった東アフリカの小国、エリトリアの選手がメダルを取れたならば、きっともっとうれしかっただろう。
日本チームの活躍した種目をテレビ観戦する機会は少なかったから、不満がないわけではない。しかし、自分の“想像の共同体”からは距離をもつことができた。これも、あながち悪いことではない。
 以上が、私の北京オリンピック大会テレビ観戦記である。

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by zuixihuan | 2008-09-07 11:02 | 重慶日記(完) | Comments(0)
  
重慶日記 第18信(2008年8月23日・ 内田 知行)

 22日、重慶師範大学のJ先生ご夫妻のお誘いで合川県にある「釣魚城」に出かけた。実は、養魚場で半日釣りを楽しんで、釣果をレストランに持っていって唐辛子や山椒などの調味料がたっぷり入った「紅焼魚」をたらふく食べるのか、と思っていた。
 
目的地は重慶市から約85キロ、高速道路で約1時間のところにある。合川県城に入ってやっと、「釣魚城」というのが南宋時代の古戦場だということが分かった。釣りの話など一度もしたことのないJ先生が「釣魚城」を案内してくださることの意味がやっと分かった。合川県城から嘉陵江の大橋を渡り、小高い山をどんどん上がっていく。標高約400メートルの岩山である。途中に門があり、入場料(門票)は1人30元だった。

海抜390メートル余の山頂は真っ平らで、日本の公立小学校の校庭位の広さはある。往時は南宋軍の練兵場だったという。参観にきた大型バスや乗用車が数台停まっていた。蒙古大軍の襲来を予知して南宋の軍人が「釣魚城」の防御工事に着手したのは1243年のことであった。
同城は1279年に元軍に投降して開城するまでの36年間抗戦を堅持した。同年南総が滅びて元朝による中国の統一が実現した。36年間に「釣魚城」は大小数百回の戦闘を交えたが、すべて防御に成功したという。
1259年には、チンギスハーンの孫にあたる蒙古の将軍、蒙哥大汗を戦死させるという戦果をあげた。城下に陣取った10万の蒙古軍にたいして、城内には宋兵4600余人を含む一万数千人が立て籠もった。城内の面積は2.5平方キロ、いまでも城の生垣は8キロも残っている。堅固な防御壁にくわえて、城内には多くの天水池や井戸があり、数千ムウの面積の開墾地があったという。つまり、「釣魚城」は一つの町であり、世界の古戦場の中でもじつにユニークな存在なのである。

「釣魚城」の城門は8つあり、そのうち最も良く保存されている護国門を見た。今では城門の外に石畳の道があるが、その昔は城壁に横穴をうがって、太い柱を水平に差し込みその上に木製の道路を作った。いわゆる「蜀の桟道」である。敵軍が攻めてくると、それを外して、敵軍の進路を断った。
岩山でできた「釣魚城」には、南宋以来文化人が訪れて碑記を書き残した。護国門を入った右側の後壁には、1943年に蒋介石が書いたという碑が残っている。「堅苦卓絶」という表現である。困難に耐えること想像を絶しているというくらいの意味になろうか。これは、南宋の長期抵抗にあやかって自らを鼓舞しようとした言葉であろう。
「堅苦」は蒋の造語で、「堅持」と「艱難辛苦」を組み合わせている。堅と艱とは中国語では同じ音である。1937年に開戦した抗日戦争も、先が見え始めていた。米軍によって太平洋戦線でも東南アジア戦線でも守勢にたたされた日本軍は、1943年には首都重慶への空爆も放棄していた。国民政府主席蒋介石は戦争終結後の国内政局をどのように予想しながら、この言葉を書いたのであろうか。

 蒋の碑のすぐ右側に「中央陸軍軍官学校特別訓練班十周年紀念碑記」(1943年7月中旬)という碑があった。国民政府の軍官学校が組織した夏期訓練班の設立十周年を記念した石碑である。
同年夏、この古戦場に訓練班がやってきてこれを記した。碑の最後に、「国恥をすすぐことを誓い、わが山河を取り返し、黄帝永世の子孫たることに恥じず、副委員長の十年の撫育に背かず」(誓雪国恥、還我河山、方不愧黄帝永世之子孫、斯不負蒋校長十年之培育)とある。また、石碑の前半には、「我が委員長[蒋介石]は東夷[日本]による辺境への侵略という辱めに耐えて、堅苦卓絶し、各軍を自ら率いた」(我委員長忍東夷侵辺之辱、堅苦卓絶、躬師各軍)と蒋の心情を記していた。

しかし、私にとって面白かったのは、「蒋委員長忍・・・・・・」の直前に置かれたこの石碑の冒頭の言葉である。それは、「維二十二年夏、乱賊敗政、行為辟方、致使国勢日盛、民不堪命」である。大意は、民国22年、すなわち1933年の夏、乱賊が政治を混乱に陥れ、その行動があちこちに広がって、そのために国勢は日増しに緊迫し、民衆は命を削るような苦しみを舐めた、というものである。

1930年代初頭、毛沢東や朱徳らの中国共産党軍は、江西・湖南・福建各省の農村に革命政権を設立して国民政府の秩序を脅かした。ところが、国民政府の大規模な攻勢によって政権の維持が困難になり、1933年夏、革命政権の主力は西南諸省に退却することになる。
彼らは、最終的には1年余の歳月をかけて陝西省北部に到着する。これが中国革命史に名高い“長征”である。当時の蒋介石の抗日政策は、「安内攘外」政策というもので、「攘外」(抗日)をやるにはまず「安内」(共産党の平定による挙国一致)をやらなくては、というものであった。そこで、この石碑でも「東夷」より先に「乱賊」が置かれた。つまり「抗日」の決意の前に「反共」が置かれたのである。

私には、こんな観光地にも国共関係史の歴史的な史料があったのが、面白かった。もっとも、ガイドの話では、蒋介石の碑も軍官学校の記念碑も1960年代の文化大革命時代には漆喰で覆われ、「毛主席万歳」その他の革命スローガンが書かれていた。1980年代に入って、もとの碑文が再び世に出たのだ。マア、革命が反革命を守ったのである。今の中国共産党には、半ば反革命の言辞も歴史史料として公開する大らかさがあるのだ。あるいは、これも台湾人や華僑の観光客むけの観光資源として見せてやろうという、したたかな計算なのだろうか。

[釣魚城]内には晩唐期の摩崖仏もある。身長11メートルの横臥仏がある。文革期に頭部が破壊されたが、1980年代に原状を復元したという。その右隣には、約2780体のミニ仏像を彫った千仏岩がある。高さ4.5メートル、幅7.4メートルの岸壁に細かく彫られている。惜しいかな、仏像は最上部1メートル弱の部分にわずかに残っているにすぎない。上部は風化によってくずれ、下から中段にかけての石壁はみごとに削り取られている。

文革時代、「釣魚城」を含んだこの地域には「東渡人民公社」という行政組織があった(人民公社は1980年代初頭に中央政府の号令によって全国的に解消され、鎮や村になった)。
文革時代には、全国で「破四旧」という、古い思想を排撃する運動が行われた。この地域でも、石刻、摩崖仏、古建築などが破壊された。この人民公社では、村人に千仏岩のミニ仏像1体を削り取るたびに日当0.2元を支給した。この他に、阿弥陀仏・観世音・大勢至菩薩からなる三聖仏はいずれも斬首され、三聖仏の下の千手観音も首を切られて胴体をえぐられた(三聖仏は1980年代後半に修復された)。打ち壊しに加担した庶民たちもその当時はスカッとしたかもしれないが、その結果が今の姿である。

1980年代初頭まで、護国門内は養豚場、忠義祠の建物は小学校の教室、薬師殿は村役場の事務所だった。1986年に四川省政府が「釣魚城」を文化財に決めて再開発に着手したとき、ここにはまだ東渡郷魚城村という村があった。政府は1986年に村人から「釣魚城」内の土地667ムウ(うち耕作地は275.5ムウ)を買い上げ、村人を下山させた。村人は、その後政府から再開発のための労働力として雇用された。言ってみれば、昔壊した人が、その後給与をもらって再建に努めたのである。文化というものは、民衆によって破壊され、民衆によって復活、伝承されるものなのである。
考えさせられることの多い、一日古戦場観光だった。

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by zuixihuan | 2008-09-07 11:01 | 重慶日記(完) | Comments(0)