東京都東久留米市の「グループ・中国だい好き」です。中国がだい好きな方々とのネットワーキングを大切にします。


by zuixihuan

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“新春の集い”へのお誘い

恒例の「新春の集い」(餃子パーティー)を下記のとおり開きます。ふるってご参加ください(今年の春節(旧暦元旦)は1月26日)。

日時    2月1日(日) 午後1時30分より
場所    西部地域センター調理室(滝山)
定員    30人
会費    日本人 500円  中国人 無料
締切り   1月30日(金)
申し込み  川村(471-3960)


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さすが中国の男性 千切りキャベツもお手のもの 
2008年1月24日
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by zuixihuan | 2009-01-26 04:18 | 催し/企画/情報 | Comments(0)
重慶日記/(2009年1月24日)

 私の重慶滞在も残すところあと2か月となった。最近は集めた重慶地方史関係の史料整理と原稿作成のための準備作業に追われている。やっているのは歴史学であるが、歴史的現実のある部分は今に続いており、ある部分は今とは断絶している。集めた材料のうち断絶の面と継承(連続)の面について若干紹介して、私の勉強の経過報告にしたい。

 断絶面について。重慶は北京よりもはるかに西にある。いまでも毎朝7時過ぎには起床しているのであるが、大寒をすぎた最近では朝が来るのがまことに遅い。午前7時は午前5時前の暗さである。中国の標準時間は北京時間で、東西に長い国家であるのに、中国政府の制定した標準時間はひとつだけである。標準時間は重慶に住む私の体内時計とはまったく食い違っており、生活感覚がくるってしまう。こういう時間の決め方は、北京にいる権力者の都合だけを優先しており、地方の人々の生活感覚をまったく無視したやり方ではないか、と思う。こういう思いは、重慶に来るたびに私が感じていたことである。ところが、抗日戦争時代の史料をみていて気がついたことは、その時代の中国では複数の「標準時間」が採用されていたことであった。1939年5月に中央政府によって制定された「全国各地標準時間実施弁法」によれば、全国は東から長白区(東北地方)、中原区(華東)、隴蜀区(重慶、蘭州など)、回藏区、崑崙区に分かれていた。南京や上海・北平は中原区、重慶は隴蜀区であった。ハルビンが朝8時半のとき、上海は8時、重慶は7時、ラサやウルムチは6時、カシュガルは5時半だった。ただし、抗戦の臨時首都は重慶であった。国民政府の要人はすべて南京から重慶に転居していた。そこで、国民政府は、「軍事上の便宜」を考慮して1939年6月1日から暫定的に隴蜀時間を全国標準時に決めた。なんとその時代は重慶の生活時間が全国標準時になったのだ。その後、戦後の1945年11月に国民政府は5区域ごとの全国標準時制にもどした。この制度は国民党が共産党に敗れて台湾に敗走するまで続いた。共和国政府は全国に居住する民衆の便宜をかんがえたならば、米国並みに5地域ごとの標準時制を採用したほうが、よいのではないか。国民政府の政策の中にも継承すべき政策があったのだと、私は考えている。なお、抗日戦争中に日本は中国でまことに無茶な標準時を採用していた。それは、1942年2月1日から日本軍占領下の全中国で「日本標準時」の採用を強要したことである。これも支配者の都合の押し付けであった。

 継承面について。重慶で生活を始めて慣れなかったことのひとつは道路の横断であった。交通が完全に自動車優先であり、横断歩道や信号が極端にすくない。しかし、問題は歩道を横断するさいにどうしても最初に右側を見てしまうのである。車はまず向かって左手からくるのに、である。この事実にそうとう面食らってしまう。共和国政府が国民政府から継承した制度のうちのひとつは、自動車の右側通行である。もともと日本や英国と同じ自動車の左側通行制を採用していた中国が全国一斉に右側通行に移行したのは1946年1月1日からである。60年ちょっと前の出来事である。議論は戦争末期の1944年から始まり、対日戦勝時の1945年8月に議論が本格化した。その理由を探ると、いくつかあるが、抗戦末期におけるアメリカ車の輸入である。米国の軍事援助物資のなかでは自動車の輸入はそうとうに多かった。フォード、シボレー、ドッジ、スチュードベーカーなどである。これらアメリカ車の運転席は米国内が右側通行のために車両前方の左側にあった。輸入してそのまま中国国内で利用するのは大変に不便だった。運転操作性が悪いので、よく交通事故の遠因になった。そこで、運転席の改造をしたのであるが、そのコストは車両購入原価の5分の1もかかった。世界の趨勢も右側通行になっていた。そんなわけて当時の中国国民政府も自動車の通行方式を思い切って変えたのである。中華人民共和国の指導者は右よりも左が好きな人々だったが、こればかりは前政権を継承したのである。しかも、変更の遠因は「アメリカ帝国主義」の車両増加だった。

 そんなわけで、日常生活のなかにも伝統の継承と断絶が混在して、庶民の生活を律しているのである。
 

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by zuixihuan | 2009-01-26 04:15 | 重慶日記(完) | Comments(0)

09年3月の中国語教室

09年3月の中国語教室 
(会場確保がばらばらなので、情報が集まり次第アップします)

入門班 午後6時から
3月7日公民館 
3月14日未定 
3月21日未定
3月28日公民館


初級班
3月7日  東久留米市中央図書館集会室
3月14日未定 
3月21日未定
3月28日未定



中級班   月曜  6時~8時  男女平等センター
3月2日  男女平等センター
3月9日  男女平等センター  
3月16日 男女平等センター  
3月23日 男女平等センター  



会話班
3月3日公民館9:30
3月10日休み
3月17日公民館9:30
3月24日公民館9:30
3月31日公民館9:30

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by zuixihuan | 2009-01-10 10:21 | 教室日程 | Comments(0)
西安便り 8 (2009 元旦)
新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

b0098096_2284343.jpg西安の元旦(新暦の)は、興慶宮公園や城壁等の一部で正月飾りをしていますが、旧暦の正月(春節)の準備はまだこれからです。11月以降雨が降らないので、校内の梧桐の枯れた葉が未だ樹に着いていますが、あちらこちらで蝋梅が咲いており、良い香りを漂わせています。本格的な冬はこれからのようですが、花を見ると和みます。

私共は、いつもの休日と変らず留学生楼で元旦を迎えました。2日は4日(日曜日)の振替休日となることが先週決まり、やっと三箇日をのんびりと休めます。大晦日は、午前中の授業が終わってから、午後日本人だけでボーリング大会をやり、また夜はカラオケと白酒(パイジョウ)で年越しをしました。どうも年が変ったという気分になりません。

交大の学生は12月から1月に掛けて毎週のように期末試験があり、新暦の年末年始にも係わらず真面目に勉強しています。そろそろ試験を終えた学生は家に帰る人もおり、校内は少し閑散としてきました。地方から来ている学生は、殆ど飛行ではなく汽車に乗るようです。6時間は近くで、20時間は普通、30時間は一寸遠いかなといった時間感覚のようです。

留学生楼も大勢学生が居たのですが、韓国や欧米系はクリスマス前に国に帰ったり、旅行に行ったりで、我々のクラスも3人とか5人とかの日が多くなっています。夜明けが7時半頃ですので、8時からの授業は一寸きついです。

あっという間に4ヵ月半が過ぎました。中国語も教師の話が少しわかるようになり、面白くなりかけたところですが、留学生活も後1ヶ月弱で終了です。引続いて勉強したいのですが、今回は1月末に一旦日本に帰ってから次のことを考えることとしました。

末筆ですが、西安から、皆様のご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。

2009年元旦
長 尾 圭 介

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by zuixihuan | 2009-01-06 22:09 | 西安便り | Comments(0)

王楽平氏による
「中国の農業と私たちの生活」を聞いて



b0098096_2145254.jpg2008年12月14日、東久留米市民自主講座の第3回目、王楽平氏(明治大学教授)による講演会「中国の農業と私たちの生活」が行なわれた。当日は雨にもかかわらず18名が参加。13:30から15:30まで休憩を挟んで王氏の講演があり、その後1時間ほど質疑応答した。講演はレスター・ブラウンの『誰が中国を養うか』への見解、農業・農産物の特徴、中国の農業(生産条件、貿易、需要予測と自給率)、日中農産物貿易についてそれぞれ話があった。


1.レスター・ブラウンの『誰が中国を養うか』
環境活動家で著名なアメリカのレスラー・ブラウンは「米国World watch institute 94」で、中国の食糧輸入量は、93年2,800万トン、2000年8,100万トン、2005年11,800万トン、2010年15,600万トンになるという数字を発表した。そのコメントとして「耕地面積の減少、水不足と食構造の変化などの原因で中国の食糧生産が90年代後半から減少傾向に転じ、中国が現在の状況のまま世界市場に供給を求めるとき、同国の食糧不足は世界の食糧不足になる」旨の警告を発した。
これにより「食料の奪い合い、戦争にまで発展しかねない」などが議論され、「中国脅威論」が登場することにもなった。
しかし、その後の統計数値でレスター・ブラウンの予測ははずれた。王氏はその要因として「耕地面積の減少を多く見すぎた。中国の穀物から肉へという「食構造の変化」の指摘の中で、畜産の中国的飼育方法への認識違い。供給の価格弾力性を配慮しない。」などをあげていた。

2.農業・農産物の特徴と農業生産条件

次に、王氏は常識として知っておく農業、農産物の特徴について述べた。大きく3つのポイントがあった。一つに農業は不可抗力、予測不能の部分が大きいこと、二つは需給の調整が難しいこと、三つには農産物需要および所得の弾力性(変動)が小さく、「豊作貧乏」にみられるような価格変動が大きいことをあげていた。
その上で中国農業の生産条件について詳細な説明があった。
1)耕地面積は2006年で1億2180万ヘクタール(以下、ha)。これは世界の耕地の9%である。(統計は国家資源部)
2)経営形態は人民公社から農家単位生産請負責任制に変わった。だが、耕地の飛び地が多く、収穫し忘れることもあるという笑い話もある。
3)零細小規模であり、農家一戸当たりの耕地面積は0.53ha、日本は1.37ha(1990年)
4)水不足と灌漑施設の不足が深刻である。また、水分布が不均衡(南が8割の水で4割の耕地、北は2割の水で耕地6割)。
5)播種面積における作物別の比率が変化しており、食糧耕地の面積は67.2%、野菜11.6%、油料種子8.8%、果樹園6.4% 綿花3.4%、その他2.6(2006年 )


3.中国の食糧生産と貿易

1)1950~2006年食糧生産量は1億3213万トンから4億9748万トンになり、56年間の年平均増加率は4.9%と歴史に前例を見ない高い成長率であるとの説明があった。また、「中国農業部の「農業及農村基本状況」から「中国の食糧生産量の推移」(1980~2006)と「中国穀物貿易の推移」(1995~2006)」の二つの総計資料を紹介してくれた。

4.食糧需給の予測と自給率

中国政府は95%以上の食料自給率を維持すると決めた。2030年に人口が16億人を想定すると一人当たりの食糧消費量は400キログラムなので総需要量6.4億トンになる。このために、いくつかの生産計画を考えている。(自給率95%のため、約6億トン必要)
1)既存耕地の生産性を高める。
2)未開墾農業適地3500万haあり、うち耕地に開墾可能な荒地は約1470万haである。
3)技術進歩で増産させる。
4)食料以外の食物(水産物、畜産物、果物など)生産の拡大可能などをあげていた。

中国の食糧需給について王氏は三段階に分けて考える。
第一段階 1949~83年 供給不足
第二段階 1984~94年 自給自足   
第三段階 1995~現在 供給過剰 

いまの中国は食料が供給過剰になっており、輸出するまでになっている。レスター・ブラウンが警鐘をならしたのは1994年であり、その予測ははずれた。しかし、王氏は「中国の農産物政策に積極的な意味を持つ警鐘であった」と評価していた。


5.日中農産物貿易

 最後に、日中間農産物貿易の状況について触れた。日本の対中農産物輸入額は、2006年で82.3億ドル(約8000億円)(中国農業部信息網)であり、これは農産物輸出総額の約3割を占めるらしい。中国産食品輸入増大の要因として、①日本農業の衰退と自給率の低下、②国内産の高コスト、高価格、③消費者需要の多様化、省力化をあげている。

ご存知の通り日本の食料自給率はカロリーベースで39%まで下がっている。中国は95%の自給率を維持しながら日本への食品輸出を維持する。中国の農業問題を考えることはすなわち私たちの食料問題を考えることに直結する大切なテーマであると感じた。昨年の餃子問題など直近の日中食品問題にかなり詳しい説明があったが、記憶に新しいことなので、本報告では省略する。

(「グループ中国だい好き会員」 nishi)


(報告者であるnishiは、講演会欠席のため、後日、講演テープと当日配布レジュメを元にレポートを作成した。)
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by zuixihuan | 2009-01-06 21:49 | 読者の投稿 | Comments(0)

新年おめでとうございます     
              
「中国だい好き」会長
内田 知行(在中国・重慶)

早いもので、私の重慶生活もすでに9か月が過ぎてしまいました。
旧年中は、中国でもいろいろな出来事がありました。5月中旬に、四川省北部で大地震が勃発し、9万人前後の人々が亡くなりました。縁起の良い8月8日午後8時には、北京オリンピックが開催されました。51個の金メダルを取った中国は、アメリカに替って金メダル大国になりました。
重慶では、地震もオリンピックも直接体験することはありませんでしたが、この社会を揺るがした悲劇と壮挙を実感することはできました。
「志願者」(ボランティア)と「加油、中国」(中国がんばれ)がこれら二つの大事件の合言葉になりました。

9月下旬には、東久留米の「中国だい好き」の会員の皆さんを重慶にお迎えすることができました。
9月27日の午後、私たちは市政府の華僑事務室の手配した車で重慶医科大学付属児童医院を訪れ、被災児童をお見舞いしました。そして、郭冬梅さん(17歳)と曽強君(13歳)にそれぞれ1,500元ずつの義捐金を差しあげ、「顔の見える支援」を実現することができました。残金については、私が帰国する3月末までに、重慶日本領事館の関係者と協議して、当初の利用目的にそった被災者支援に使用する予定でおります。この件については、帰国後、改めてご報告いたします。

10月1日、「中国だい好き」の皆さんは、重慶空港から上海経由で帰国しました。
短い間でしたが、「重慶・桜クラブ」の中国人の方々と楽しい交流会のひと時を持てたこと、その後、各ホストファミリーのお宅に一晩ホームステイでお世話になったこと等を通して、念願だった皆さんと当地の中国の友人たちとの交流も実現できました。

東久留米でも、皆さんのご協力により、「中国の魅力にふれる」連続講座(全3回)が無事終わり、「生活便利帳」中国語版の作成も最終段階に入っています。
昨年は、交流の面でも、「学び」の面でも、大きな収穫がありました。
新しい年を迎えて、皆さんと力をあわせて、よりいっそうの収穫と喜びがもたらされるように努力したい、と思います。

加油、東久留米!

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by zuixihuan | 2009-01-02 10:43 | お知らせ | Comments(0)