東京都東久留米市の「グループ・中国だい好き」です。中国がだい好きな方々とのネットワーキングを大切にします。


by zuixihuan

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西安便り3-(3)

2010.4.9

西安便り3-(3)

中国だい好きの皆さん:

お元気ですか。

西安はポプラや柳の葉が一気に伸び柳絮が飛び交い始め、至るところで花が咲いて、春が来たという気分に浸っています。交大のキャンパスでは2週間ほど前に咲いた山桜や染井吉野は散りましたが、今八重桜とライラックが満開です。

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(交大の桜並木)

交大の八重桜は日本から持って来た濃いピン色の品種が多く、校内で東西に二本伸びる300m位の桜通り(樱花东路と樱花西路)があり、桜だけのアーケードといった感じで大変豪華です。この時期は学生や教職員の友達も来るようで、家族連れや子連れで散策しており、皆笑顔で写真を取っています。交大は西安市内でも桜の名所となっています。

私は昨年4月中旬に西安に来ました。日本の桜を見た後、西安でまた桜と牡丹が見られると楽しみにしていたのですが、西安は東京より1,2週間春が早い様で、残念ながらその時は、桜は散り牡丹は最盛期を過ぎて、芍薬の時期になっていました。今年は3月に来ましたので、西安と洛陽の両方の桜と牡丹を見たいと思い、先週洛陽に行って来ました。

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(洛陽の牡丹)

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(洛陽の牡丹)

洛陽では4月1日から5月5日まで街を挙げて牡丹祭りを開催しており、この最盛期にはホテルは倍近い料金となり、招待所も満室で、列車の切符も取りづらくなるということです。そこで少し時期が早かったのですが、牡丹祭りをするくらいだから何処かで咲いているだろうと期待して、4月2日(金)から2泊3日で若者3人と一緒に行ってきました。

昨年秋に西安から鄭州まで动车(特別快速急行)が開通しましたので、行きはこれに乗り、帰りは在来線の急行硬座です。动车は在来線の線路を走り精々1,2時間程度早いくらいに思っていましたが、乗って見ると専用の線路と駅を新設し、車両は日本の新幹線仕様でした。内装だけ中国で製作したようです。帰りは5時間半かかりましたが、行きは2時間弱です。料金は动车が185元、在来線が55元です。

洛陽駅は街の北にありますが、动车の新駅「洛陽龍門」駅は街の南の外れでした。バスで洛陽駅に移動しましたが、街路樹は西安に比べて芽吹きが遅れており、緑地帯の牡丹も蕾の先が未だ赤くなっていません。少しがっかりしました。この日は宿に荷物を置いて、街の東側にある白馬寺に行きましたが、大きな牡丹園の牡丹も未だ蕾が小さく、交大の牡丹の方が大きいくらいです。

二日目は、龙门石窟と关林に行き、帰りに道筋の「中国国花园」に寄りました。中国国花园は総面積46万㎡、牡丹鑑賞園面積26万㎡で、約1000種数万株の牡丹が植えられており、中国で最大の牡丹園です。早咲き、中咲き、遅咲きの品種があり、1ヶ月余りに渡って楽しめるようです。幸いにも、広い園内の所々ですが牡丹が咲いており、電動カーとで花が一番咲いているところに移動して、帰り道をゆっくりあるいて、牡丹や他の花を見て来ました。この時咲いていた牡丹は人工的にシートで覆って早く咲かせたようで、本格的な開花は1、2週間先のようでした。今年は寒い日が続いたので遅れているようです。 三日目は洛陽博物館と「王城公园」です。王城公园は動物園と遊園地があり、早く咲かせた牡丹も咲いており大変な賑わいでした。 

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(青龍寺の桜)

西安に帰ってから、5日(月)は清明節で休みですので、青龍寺の桜も見に行って来ました。拝観券売り場も入口も長蛇の列で、境内も大変な賑わいです。ここは八重桜と枝垂桜があり、八重桜は色も白から濃いピンクまで種類が豊富です。しかも細い道の両側に植えてありますので、交大以上に豪華でした。空海の記念碑のある広場の周囲は内側に桜、外側に大きな桐の木が三方を取り囲んでおり、紫の桐が咲きかけたところです。満開になるとこれも楽しめます。

今日交大の北門周辺の日当たりの良い所の牡丹が20本程咲きました。白やピンクの薄い色が早咲きのようです。西安では4月中旬過ぎまで牡丹を、それから5月初めまで芍薬が楽しめそうです。

4月末は陝西省の西北に位置し、黄河の上流部になります寧夏回族自治区の銀川と中衛に4泊5日(往復2日は車中泊です。)留学生旅行です。オルドスと呼ばれ、西夏王国があった場所です。井上靖の敦煌はこの西夏の建国時代が舞台となっています。

旅行も中国語の勉強のうちと考え、色々旅行を計画しています。
中国だい好きの皆さんも大いに春を楽しんで下さい。

   祝你们
身体健康!
長尾圭介
2010.4.9

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by zuixihuan | 2010-04-10 04:29 | 西安便り | Comments(0)

山西省「日本軍性暴力展」参観旅行をめぐる雑感


内田 知行

〔1〕 「性暴力展」と本館の「抗戦史」展示

b0098096_6453696.jpg(宿泊したホテル、新紀元大酒店からみた省都太源市の十字路)

2010年3月18日から25日まで中国山西省を旅しました。旅の目的は、同省武郷県の八路軍記念館で開催されている「日本軍性暴力展」の参観と原告として裁判を闘った同省の「大娘」(ダーニャン/敬愛の情をこめた「おばあちゃん」の意)やその家族(遺族)たちとの交流です。今回の展覧会は、これまで「大娘」たちの闘いを支援してきた日本の4つの民間団体を主体とする実行委員会が心血を注いだ成果です。

展示から、日本軍占領下のアジア諸地域における性暴力の歴史と、自己の尊厳の回復のために闘った被害女性たちの足跡を学ぶことができました。展示を参観して、被害のスケールの大きさ、被害の共通性、被害者にたいする民衆同士の連帯運動を知りました。周囲の無理解のなかで立ちあがった被害者や家族・遺族のみなさんの勇気を証す展示だと思いました。はるばる太行山脈の山の中の町に行った甲斐がありました。

午前中に分館の性暴力展を参観したあと、午後は本館の八路軍抗戦史の展示を見学しました。午前中の感銘の余韻が残っていた私は、正直なところ本館の展示にがっかりさせられました。この記念館は愛国主義歴史教育の基地だそうですが、中国の歴史教育の問題点を見せられたように思いました。それは次のような理由によります。

b0098096_7152554.jpg(67年前に被害女性たちが閉じ込められていた孟県農村の家屋)

まず、展示が私たちが考える学習や、さらにいえば研究のための材料になっていないことです。性暴力展では、写真や地図以外にも数多くの文字史料があり、それらには出所が明記されています。出所の明示は、歴史観を提示するさいの良心の表明である、と私は思います。さらに、文字による必要かつ簡潔な説明もついています。被害者や遺族のプライバシー保護の配慮から、パネルの接写は制限されていますので、学習内容をデジカメで記録できないのはいささか残念です。

他方で、本館の展示は遠くから見たほうがよい、バカでかい写真や地図の連続です。文字史料の展示は少なくて、文字によるきちんとした説明は驚くほど少ないのです。しかも、それらにはなんらの出所説明もありません。まるで、歴史の事実は学習して暗記すればよいかのようです。材料を吟味して自分の頭で考え、そうして自己の歴史観を定着させていく、そのような契機にはなりそうもない展示です。参観者は館内ガイドから詳しい説明を聴きながら回ればよいのかもしれません。でも、後述のように紆余曲折の著しい中国共産党史や抗戦史の論点を年若いガイドがどこまできちんと説明できるのか、私は知りません。ともかく、本館の展示は一人でまわりながら八路軍抗戦史をじっくり学ぶという内容にはなっていないようです。

本館における人物写真の展示は、中国共産党を代表する指導者を今日の立場から顕彰するという傾向が強いようです。抗戦史の角度からの英雄伝説の創成です。八路軍の初期の成功した作戦としては林彪が指導した山西省の平型関戦闘(1937年)が有名です。しかし、文革時に毛と主導権争いをして敗れた林彪の写真は掲示されていません。文字説明も省略されています。毛沢東と政策面で対立してのちにソ連に去った王明も、抗日民族統一戦線の樹立では一定の役割をはたしました。しかし、そんなことも展示では一顧だにされていません。康生は、文革時に毛沢東の側近として党内の政敵や知識人を弾圧した人物です。抗日戦争時代の延安整風運動でも、彼は毛の権威を利用して凄惨な知識人弾圧に走りました。康生の功罪や彼と毛との関係なども「歴史の教訓」として、民衆に語り継ぐ必要があると思います。

しかし、こんなことを学ぶ契機は、本館の展示のどこにもありません。そもそも同じ英雄といっても、安全な後方根拠地の延安で執筆活動に明け暮れた毛沢東と、前線で命を賭けながら戦役を指揮した朱徳・彭徳懐ら、重慶で暗殺の危険を覚悟して国民党との丁丁発止の交渉に尽力した周恩来とでは立場がずいぶん違います。大版の写真(出所は明示されていません)のオンパレードで、しかも説明が極端に省略された展示によって、民衆をいったいどのように教育するのか、知りたいものです。歴史を「現代を考えるための鑑とする」というのが中国人の歴史思考の特徴だと思いますが、その点では性暴力展のほうがはるかに忠実にこの任務に応えています。記念館の職員の皆さんには、今回の分館の展示に学んで、本館の展示を今後さらに充実したものにしていただきたい、と思います。

〔2〕 林伯耀さんの発言

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(座談会で発言する林伯耀)

八路軍記念館の性暴力展参観後、館長さん主宰の座談会が開かれました。多くの関係者の発言がありましたが、裁判を闘った盂県の被害女性の原告代表として、今年82歳になる万愛花大娘が発言しました。日本の最高裁で、すでに原告らの請求は棄却されてしまいました。「日本政府は私たちに謝罪していない。恨みを晴らさなければ死ねない」という切実な発言に胸が塞がれました。

万さんの発言のまえに彼女の「小弟」である神戸在住の華人、林伯耀さんが発言しました。彼の発言内容は、盂県の大娘たちの支援運動に係わって以来私が感じていたことで、わが意をえたりという内容でした。それは、今の中国社会の問題点を性暴力被害者の視角から批判するものです。すなわち、中国社会は今もって男性優位社会であり、性暴力被害は〈恥だ〉と考えている。被害者が名乗り出ようとすると、家族や周囲の人びとが非難しようとする。社会が被害者を温かく受け容れることができない。被害者は、社会のなかで一貫して差別され続け、抑圧され続けてきた。だから、万大娘はふるさとの村から離れ、太原という彼女の過去を知らない大都会で住むことを余儀なくされたのだ。被害者として名乗り出たあとの万大娘の語りや今回の展示は、今の中国社会にたいする告発である。そして、侵略と抗日という歴史の構図で考えるならば、自身が抗日の村の若き女性指導者として被害に遭った万大娘の足跡は侵略にたいする抵抗そのものなのだ。林さんの発言の趣旨は以上のようなものでした。会場は、いっとき静まり返りました。

b0098096_6365568.jpg(黄土高原の村、孟県のヤオドン住居)

盂県の原告のなかに、養母・南二僕さんの無念を晴らすために訴訟に参加した楊秀蓮さんがいます。南二僕さんは、約3年間決まった日本人古参兵に占有されて被害をうけました。被害期間が長かったために「日本軍に通じた」と誤解され、共和国建国後の1950年代に発生した政治運動では、南さんは「歴史的反革命」という罪に問われ、3年間入獄しました。1960年代後半に文化大革命が勃発したときにも、村の人びとから厳しい仕打ちを受けました。この時には、やはり「歴史的反革命」と書いた大きな札を首から下げられて人前に立たされたり、他の村びとが仕事を終えて家に帰ることが許された後も残業して、最後に帰宅を許されるなどの政治的迫害を受けました。

南さんの被害事実をすべて知ったうえで結婚した夫の李貴順さんとは終始仲のよい夫婦だったそうですが、そのために文革時代には夫も政治的迫害を受けました。南さんは結局、文革時代の1967年に村で自死してしまうのです。村びとたちは、南さんの被害を「村の恥」として非難し続けました(詳細は、『黄土の村の性暴力』所収の「楊秀蓮」「楊時通」証言)。
「解放後」の中国社会は、日本軍占領下で受けた苛酷な被害を理由として、過去に劣らぬおおきな抑圧を一人の婦人に与え続けたのです。「解放後」に万大娘が受けた社会的抑圧と同質の抑圧が南二僕さんをも襲ったのです。これは、精神医学の立場からみると、一次被害に由来して発生した二次被害の問題ですが、「解放」されたはずの中華人民共和国では、多くの戦時性暴力被害者の女性たちがなんら傷を癒されることなく生を終えようとしています。林伯耀さんが指摘したのは、こういう問題なのです。もっともこの指摘は、日本と中国のあいだに跨がって生きてきた在日華人だからこそ、できたことです。日本人では、遠慮があってなかなか言えません。

性暴力の被害者が名乗り出るというのは、日本社会でもどこの社会でも勇気が要ることだと思います。しかし、性暴力被害が、交通事故のさいの被害とはちがって本人の恥、家族の恥、周囲の恥、社会の恥としてことさらに問題視されてきたのは、中国の伝統的(因習的)思考が関係しているのではないか、と魯迅を読み直しながら、最近考えています。魯迅の評論のなかに「『他媽的』について」(1925年7月19日)という文章があります(松枝茂夫訳『魯迅選集 第5巻』岩波書店刊、所収)。「他媽的」は、中国社会では最も下品で普遍的な罵倒表現で、「奴の母のものを犯してやるぞ」という意味だそうです。日本語の典型的な罵倒表現は「馬鹿野郎」か「こん畜生」だと思いますが、それでも相手の血統の尊厳を踏みにじる「他媽的」の表現ほど過激ではありません。日本における裁判の結果とは別に、被害者が中国社会のなかで真に尊厳を回復していくためには「他媽的」の思考が克服されなければならないだろう、と思います。

〔3〕 フランスの「呪われた子どもたち」の新聞記事を読んで

今回の中国旅行の直前、「父を探して 占領下に生まれたハーフたち」(『朝日新聞』2010年2月19日)というフランス発の記事を読みました。1940年5月のナチスドイツ軍の侵攻から44年8月のパリ解放までフランスはドイツの占領下にありました。その占領時代に、ドイツ軍兵士とフランス女性とのあいだには約20万人の子どもが生まれました。同記事によれば、このような子どもたちは「呪われた子どもたち」と呼ばれ、「当時は例外的な婚外子に生まれ、父親を知らないで育ち、独仏のハーフだといじめられるという三重苦にさいなまれてきた」。このような子どもはフランス国内だけではなくてベルギーに4万人、オランダに2万人、ノルウェーに1万2000人、フィンランドに4000人いるといわれます。フランスでも、当初はこのような子どもたちの存在はほとんど不詳でしたが、「1938年から49年までのフランス全体の出生数、非嫡出児(私生児)数を検討してゆくところから明らかになってきた」と桜井哲夫氏は書いています(同氏『占領下パリの思想家たち』平凡社新書、2007年)。

実は、私がこの新聞記事に驚愕したのは、3、4年前に張成徳他編『山西抗戦述史(第1巻/暴行・奴役・苦難)』(山西人民出版社、2005年)というオーラル・ヒストリーの著作を読み、ある証言がずうっと心に引っ掛かっていたからです。それは、山西省東北部の代県劉広村という村で発生した性暴力の証言です。この村にも日本軍の砲台が置かれていました。「日本人が村で強姦した婦人は4、5人でした。だれ一人として進んで行った婦人はいません。村には、日本人が生ませた子どもはいません」(拙稿「中国における戦時性暴力をめぐる記憶と記録」、三谷孝編『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』旬報社、2008年、参照)。

私が引っ掛かったのは、「村には、日本人が生ませた子どもはいません」という一言でした。盂県の原告被害者のなかでも、性暴力を受けて子どもを出産したのは南二僕さんの1例のみです。
今日の推定では、日本軍占領下の中国で日本軍の性暴力被害者は40万人を下らないというのに、じつは性暴力を受けて出産するという事例はほとんど確認されないのです。しかし、確認されないということと、なかったということとは異なります。
フランスでは、1970年代に妊娠中絶にたいする罰則規定を廃止させる法律が制定されるまで、中絶はご法度でした。嬰児殺しはもちろん非合法でした。しかし、中国や日本では中絶は野放しでしたし、貧困による嬰児殺しも広く行なわれていました。
だから、フランスの新聞記事からは、日本占領下の中国農村で多くの被害者が妊娠したにもかかわらず、「敵とのあいだにできた望まれない子ども」のゆえにその多くが闇に葬られた、と推測せざるをえないのです。被害女性たちが二重三重に傷ついたにもかかわらず、もう一つの悲劇はほとんど確認されないで今日に至っているのです。あるいは、今私たちが知らない中国農村の片隅に「呪われた子ども」とその母親が息をひそめながら生きていて、救いを待っているかもしれないのに、私たちにはなんの行動も起こせないのです。まじめに歴史研究にとりくんできたつもりなのに、自分のなかにある戦争認識におけるジェンダー・バイアスに気がつかなかった、と改めて反省させられました。

〔4〕 劉面換大娘の「解放後」

b0098096_639249.jpg(お別れの手をふる劉面換さんとご長男)

3月22日の午後、西潘郷羊泉村で劉面換大娘から性暴力被害の体験を聴きました。耳を塞ぎたくなるような体験を勇気をもって話してくださいました。1943年、娘時代の15歳のころ、日本軍に捉えられ40日余り拘留されて、日本兵7人や地元の傀儡軍兵士らから被害をうけました。当時としては大金の銀貨100元余りを日本兵に渡してやっと釈放されたそうです。後半には、涙ぐみながらの語りになりました。私たちも胸の塞がる思いがしました。

ひと通り語りおえたのち、「いつ結婚されましたか」という質問がでました。「解放後です」、「18歳の頃です」という回答がありました。この回答は、私には辻褄が合わないように思われました。なぜかというと、今の中国では、「解放後」というのは1949年10月の中華人民共和国建国以降という意味だからです。共産党が封建制度と帝国主義から民衆を「解放」して「新しい中国」を創ったという歴史観にもとづく表現だからです。これは、現代中国における歴史教育の本質に関わる語彙です(ただし、近年日本の研究者は、「解放後」と書くかわりに「建国後」と書いています。前者は歴史的評価に関わる表現ですが、後者は歴史的事実に関わる表現だからです)。「解放後」という記憶が正しければ、結婚は1949年以降、すなわち21歳以降になります。しかし、自己の人生の節目にあたる結婚年齢の記憶がまちがっているというのも奇妙です。

劉大娘のお話がおわったあと、庭先にいた御長男と立ち話をしました。それによると、1947年生まれで、下に弟が1人、妹が3人いるそうです。それで、結婚が1945年8月の対日戦勝後だったということがわかりました。私にとって興味深かったのは、苛酷な体験の元凶であった日本の敗戦こそが劉大娘には「解放」として記憶されている、ということでした。当然といえば当然な話です。個人の歴史を公式の歴史観にあてはめて解釈しようとした自分の思考を反省させられた証言でした。

〔5〕 張双兵先生の「休業」

b0098096_6422310.jpg(旧友の張双兵先生)
 
今回の旅で再会した旧友のなかに、盂県の農村で大娘たちの支援活動を長く続けてこられた小学校教師、張双兵先生がいます。数年ぶりの再会でしたが、笑顔は相変わらず青年のようです。聞けば今年52歳、ご子息は18歳で太原の学校で勉強しているそうです。今も西潘郷羊泉村に住んでいますが、2年ほど前から羊泉小学校教師の仕事は「休業」しているとのこと。初めはなぜ休業? と奇妙に思いました。しかし、歓談を続けていくうちにやっと謎が解けました。そして、お話から今日の中国農村における公教育の問題点が浮かび上がってきました。

張先生が「休業」するまえの西潘郷には31校の小学校があったそうです。数年前に訪問したときには、張先生の自宅に隣接する小学校の校庭で赤いほっぺの元気な子どもたち十数人に会ったことがあります。教員は張先生一人で、まさに僻地のミニ小学校そのものでした。西潘郷は黄土高原の山間の行政村で、日々の往来の難しい多くの自然村から構成されています。険しい地形や劣悪な交通事情を考えると、小規模校がいくつも分散して置かれているのが児童や父兄たちの利益にかなっています。しかし、近年中国政府は小規模校を廃校にして比較的大きな集落に学校を統合しているそうです。そうした政策の結果として、西潘郷ではこの数年のうちに小学校数が6校、すなわち以前の5分の1に減らされてしまいました。廃校・統合は行政権力にとっては公益の向上になっているのでしょう。教員の削減と統合、乏しい教育資金の傾斜配分、行政的指導の徹底化などです。しかし、私にはこのような政策は地域の現実を無視したやり方に思えます。

西潘郷西潘村の小学校前に停車したとき、休み時間の校庭では多くの子どもが遊んでいました。こんな山の中なのに、ずいぶん多いナと感じました。後で張先生に聞いたところでは、僻地の小学校から転校してきた子どもたちは学校の寄宿舎に住んでいるそうです。低学年の児童が親元を離れて週の大半を寄宿舎に住むのが、情操教育の視点からみて良いのかどうか、私にはわかりません。この小学校の隣に雑貨屋があり、昼食時に雑貨屋で買い食いする子どもたちを見ました。お昼ご飯を自宅で食べることのできない子どもたちです。道端では、3、4人の男の子たちが昼食替わりにスナック菓子をボリボリ食べていました。ちょっと寂しい光景です。

さて、張先生は退職年齢までまだ数年あるので、その時までは従来と同額の給与を支払われるそうです。しかし、三十余年間精力を傾けて勤めあげた教師の仕事は取り上げられてしまいました。地域に貢献してきた数少ない知識人を「飼い殺し」にしているようなものです。「中国には人材がいないのではない。人材を生かすシステムがないのだ」とずいぶん前に怒りを込めて語った中国の友人のことばを再び思い出しました。まだまだ体力気力充分な張先生にふさわしい活動の場が与えられるとよいのになあ、と思いながら羊泉村を後にしました。

〔6〕 「鳳凰衛視」のこと

2月下旬にフランスを旅しました。パリでは中華街を散策して、同地で刊行されている華字紙『欧亜時報』を見つけました。同紙の1月下旬から2月末までのバックナンバーを買ってきました。帰国して、同紙の面白そうな記事を切り抜きました。そして、切り抜き集のコピーを旅行に持参して山西省の旧友たちに贈呈しました。
概ね好評でした。『欧亜時報』には、中国大陸の新聞には掲載されない、中国国内の動向に関するニュースも載っています。中国人のものさしでは考えられないような、西欧社会の事情も報道されています。コピーを差しあげた太原の一友人によれば、国内で最多の読者をもつ『参考消息』紙にも時どき『欧亜時報』の転電が載っているそうです。記事のコピーを読むことで、中国政府にとって都合の悪い報道が那辺にあるかが推測できます。グーグルの撤退からわかるように、中国社会は依然として情報統制社会なのです。

山西大学の居住区に住む友人によれば、居住区で最も歓迎されているのは香港の衛星放送「鳳凰台」だそうです。「普通語」の報道で、字幕は繁体字です。「鳳凰台」は大学外の住民には見られないそうです。大学のパラボラ・アンテナが受信して、大学内の「放送局」が逐次内容をチェックした後、各戸のTV受像機に送ります。以前は、政府に都合のわるいニュースになると完全に映像と音声が消えたそうですが、最近では音声だけが消えるそうです。もっとも字幕はでるので、ニュースの要点はだいたい分かるようです。しかし、これは報道統制しているぞ、と公言(威嚇?)しているようなものです。それでも国内の放送局よりも人気があり、なかにはCCTVなんか全然みないで一日中「鳳凰台」をつけっ放しにしている人もいるそうです。

たまたま「鳳凰台」を観た時には、台湾の台北市や台中市の市長たちが伝統的な衣裳やくま取りの化粧で舞台の役者を演じたニュースを報道していました。劇中で市長たちはやんやの喝采を浴びたようです。大陸では、太原市長や北京市長が京劇を演じるというようなパフォーマンスは絶対観られません。大陸の庶民たちは、こんなニュースを観ながら外の世界の自由や民主主義を想像するのでしょうか。

以上、今回の中国旅行で見たこと感じたことを思いつくままに列挙しました。 

        (2010、3、31)

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by zuixihuan | 2010-04-03 06:51 | 読者の投稿 | Comments(0)
第70回中国語検定試験を東久留米で実施


b0098096_52314100.jpg3月28日(日)、第70回中国語検定試験が東久留米市の2会場(準4級=男女平等推進センター、4級=市民プラザ会議室)で行われました。
初級A班の勝木節子先生と内田会長の尽力で、私たちの中国語教室が「日本中国語検定協会」から団体受験を認可され、東久留米会場での受験が可能となったのです。





b0098096_5233665.jpg勝木先生の指導のもと、みな真剣に受験勉強に取り組みました。
終わってみると、もっと勉強をしておけばよかったというのが正直な感想です。
でも、久しぶりに緊張感をもって過ごした2カ月間でした。
参加者は、東京都会場で受験した会員を含め、全部で12人でした(都合で1人が不参加)。
先生、みなさん、太辛苦了!

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by zuixihuan | 2010-04-02 05:28 | お知らせ | Comments(0)

西安便り3-(2)

2010.3.28
西安便り3-(2)

中国だい好きの皆さん:

お元気ですか。

西安は気温の変化が激しく、日中でも5,6度の日があるかと思えば、17度前後の暖かい日があったりで、上着を着たり脱いだりしています。

日本にも黄砂が行ったようですが、西安は上空を通りすぎるのか、流れの谷間なのか、北京等と比べれば量は少ない方です。それでも曇りの日は空に靄が掛かったようになり、雨が降りませんので車道は埃が舞っています。窓を閉めていても部屋の机の上や床に薄っすらと沙尘が溜まる日もあります。

西安は黄土高原の外れに位置し、しかも乾燥して雨が少ないですので、常緑樹も埃をかぶっており、空も周りの景色も薄い灰色に染まっていて寒々としています。その中で、花が咲いたり、若葉が出てきたりしますので、周りと違う空間が出来るので、感激します。

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(交通大学の山桜並木)

春の初めは黄色の迎春花咲き、柳の新芽が出てきました。次に梅や桃の花が咲き、そして今、辛夷、木蓮、山桜、染井吉野や連翹等が咲いています。日本で余り見ない花もあり、また木瓜なのか桃なのか良く判らない花も多いのですが、思いがけない所に思いがけない花が咲きますので、校内や公園の散歩は楽しいです。

校内に染井吉野が5,6本ありますが、余り目立たない場所に植えてあり、一斉に咲いているのですが、色が薄くて曇った空に溶け込んであまり華やかに感じられません。日本の様に青空が無いと華やかにならないようです。中国人は赤や濃い色を好みますが、周りの景色の影響もあるのかも知れません。

日本から持って来た八重桜や枝垂桜が交大や青龍寺にあり、これが西安の桜の名所になっています。今蕾の先が赤く成りかかっていますので、来週には咲くと思います。この時期は青龍寺も拝観料を値上げするようです。

桜の後は桐が咲きます。青龍寺には大木がありますが、郊外に出れば道路脇の至るところに有ります。これも天気の日に見れば中々風情があります。西安の街や校内の主な街路樹は梧桐(鈴掛けの木)です。葉が出ると道路を覆うようになりますが、今は白い樹や枝だけで、小さな芽が出掛かったところです。

公園や校内に牡丹園が沢山ありますが、先週まで小指くらいだった蕾が、今日は親指くらいになり、先が赤くなっているものもあります。桜・牡丹が咲き、梧桐の若葉が出てくると西安もやっと春爛漫となります。来週くらいにはと期待しているところです。

寒いので余り遠出をしていなかったのですが、授業も3週が終わり留学生の皆さんも様子に慣れたところですので、昨日(27日土曜日)おじさんおばさん4人でタクシーをチャーターして西安郊外の南方をドライブしてきました。西安は今地下鉄を作っており、南北線は来年末頃に開通するそうです。また、道路専用の外環状線が有りますが、その外側に井桁を囲むように遠隔地と繋ぐ高速道路が走っています。車で行けば短時間に遠くまで行けるようになりました。

そこで、西安郊外50km程の秦岭山脉の麓を東から西に150km程走って、のんびり名所や景色を見て回ることとして、朝8時に留学生楼を出発しました。

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(水陸庵の塑像)

最初は西安市の東南に位置します『水陸庵』です。日本の案内書にも陝西省の案内書にも載っていませんが、創建は唐代で、建物や塑像は明代の建造です。3,700体程の小さな塑像がある知る人ぞ知るという名所で、紅衛兵が壊そうとしたが住民や軍隊が破壊から守ったというところです。塑像は大変精緻で、芸術性も高く敦煌の塑像にも匹敵するといわれ、保存状況も良いです。交通の便が悪く、建物規模が余り大きくありませんので、参観者は多くありませんでしたが、農村地帯の真ん中の清流の流れる川べりにある建物で、日本人にはお勧めポイントです。中は撮影禁止で良い写真が取れていません。

秦岭山脉は黄河と長江の分水嶺で、中国の北方と南方の境になっています。2,500~3,000m級の山(西安市は標高500m位です。)が連なっており、その麓の高速道路周辺は麦を中心とした野菜畑です。麦は20cm位になっており、丁度菜の花が咲いていました。高速道路が出来たので、何箇所も村興しの様に農家が集まって釣堀のある大規模な食堂を作っています。バーベキューやキャンプ場といった感じで、夫々車が50台近く停まっており、中々繁盛しているようでした。

我々もその一つに入って、地鶏のスープと野菜料理で昼食です。釣堀の魚は丹鯉の様で、手が出ません。天気もよかったのでテーブルは屋外でビーチパラソル付きです。

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(草堂寺)

今回の最終目的地は宝鶏市に近い老子墓(唐代に老子塾があった様ですが本当の墓かどうかは良く判りません。)だったのですが、途中唐代の三蔵法師の墓のある『興教寺』、4世紀の鳩摩羅什の墓のある『草堂寺』を回っていたら遅くなったので、途中で切り上げて帰ることとし、帰りの道筋にある浄土宗の開祖の寺で日中浄土宗の祖庭といわれる『香積寺』に寄ってきました。帰着は夕方7時でしたが、天気も良く、のんびりドライブの楽しい一日でした。

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(香積寺)

来週は2泊3日で洛陽に牡丹を見に行ってきます。牡丹の花が咲いているように祈っているところです。また、様子をご報告します。

中国だい好きの皆さん、中国も楽しい季節になって来ましたが、日本も春爛漫だと思いますので、大いに楽しんで下さい。

再見!
長尾圭介
2010年3月27日

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by zuixihuan | 2010-04-02 05:16 | 西安便り | Comments(0)

2010年5月の中国語教室 

2010年5月の中国語教室 
(会場の確保時期、場所がばらばらなので、情報が集まり次第アップします)

■入門班 (時間、場所などはメールなどでご相談ください)
2010年4月開講予定 (日本人講師)
会場 未定

■初級A班 
土曜日 午後7時~9時 (日本人講師)
1日  生涯学習センター
8日  生涯学習センター
15日 生涯学習センター
22日 中央地区センター 
29日 生涯学習センター

■初級B班 
土曜日 午後2時半~4時半(中国人講師)
会場

■中級班  
月曜日 午後6時~8時 (中国人講師)
会場  男女平等センター

■会話班  
火曜日 午前9時~12時(中国人講師)
5月4日は休講になりました。

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by zuixihuan | 2010-04-01 04:36 | 教室日程 | Comments(0)

2010年4月の中国語教室 

2010年4月の中国語教室 
(会場の確保時期、場所がばらばらなので、情報が集まり次第アップします)

■入門班 (時間、場所などはメールなどでご相談ください)
2010年4月開講予定 (日本人講師)
会場 未定

■初級A班 
土曜日 午後7時~9時 (日本人講師)
3日  生涯学習センター
10日 生涯学習センター
17日 生涯学習センター
24日 休講


■初級B班 
土曜日 午後2時半~4時半(中国人講師)
会場

■中級班  
月曜日 午後6時~8時 (中国人講師)
会場  男女平等センター

■会話班  
火曜日 午前9時~12時(中国人講師)

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by zuixihuan | 2010-04-01 04:34 | 教室日程 | Comments(0)